2013-01-01から1年間の記事一覧

イファトの末裔、ワラシュマ家の到来

1403年ないし1410年、エチオピアでソロモン朝との戦いに敗れたイファト・スルタン国ワラシュマ家の「最後のスルタン」、サーダッディーンII世が、逃亡先のゼイラで殺された。この時、彼の10人の子どもがイエメンに逃げ延びたと言われている。1415年、彼の長…

この時代のコーヒーの可能性

ユーカースが著した"All about coffee"の巻末にある年表( http://www.web-books.com/Classics/ON/B0/B701/42MB701.html )には、以下のような記載が見られる。 1454[L]―Sheik Gemaleddin, mufti of Aden, having discovered the virtues of the berry on a …

はじまりの物語 (9)

ここから、15世紀のイエメンでのコーヒーの歴史をちょっとずつ、ひもといていきます。 (15世紀以前) 9世紀- エチオピアで、キリスト教徒(アクスム王国)とイスラム教徒(アラブ商人)が内陸部に進出。西南部エチオピア人の奴隷取引が始まる 925 ペルシャの…

ザビードとアデン

ここでラスール朝末期からターヒル朝前半において、ザビードとアデンがそれぞれどのような状況下にあったのかを整理してみたい。 ザビード ラスール朝時代に学術・宗教の街として大いに発展したザビードであったが、1442年のラスール朝スルタン、アル=アシ…

アリーの治世:後半(1465-78)

アーミルI世の死後、ターヒル朝イエメンでは反乱分子の蜂起が相次いだ。1465年、イッブ近郊のズー・ジブラーでは、前年に和平を結んでいたフバイシー族が再び反乱を起こし、その後スルタンに鎮圧された。またティハーマ地方の諸部族も不穏な動きを見せ、ティ…

アリーの治世:前半(1460-5)

1460年、アーミルI世の承認を受けて、アリーが二代スルタンとなった。とは言え、実質的には兄弟統治体制に変化があったわけではなく、その治世の最初の5年間(アーミルI世が戦死するまで)は、ほとんど先代から連続した時代と考えてよさそうだ。アーミルI世…

アーミルI世の治世(1454-60)

ターヒル朝成立直後のアーミルI世の治世で、主な紛争の一つは、ティハーマ地方の反抗的な部族であったマアジバー族と、クライシュ族による反乱である。彼らとターヒル家の関係は非常に複雑だが*1、マアジバー族は当初からターヒル朝に反抗的であった。クライ…

アーミルI世とアリーの時代(1454-1478)

初代スルタン、アーミルI世と二代スルタン、アリーの時代は、実質的にはターヒル家の五人兄弟の中で、傑出していた四男(アーミルI世)と、長男(アリー)による合同統治体制であった。この体制はアリーがスルタンに即位した1460年以降も続き、1465年にアー…

はじまりの物語 (8)

#ターヒル朝前半 (1454-1478) の歴史。ほとんどPorter *1の抄訳。 15世紀後半から16世紀初頭にかけて、四代のスルタンによって続いたターヒル朝時代の前半 -- イスラム圏の史料にコーヒー利用の記録がはっきりと出てくるようになるのは、この時代である。タ…

ターヒル朝の成立

ムアヤドがアデンを占拠してほどなく、ターヒル家のアーミルが兄であるアリーを連れてアデンに到着した。ヒジュラ858年ラジャブ(7の月)23日(=西暦1454年7月19日)金曜日の未明、アーミルが少数の兵を連れてアデンの城壁を乗り越えてその中に侵入し、翌朝…

ラスール朝の終焉

その後もラスール朝の凋落はとどまることがなかった。1430年代以降、アデンが徐々に回復していく一方で、ラスール朝では飢饉や疫病が相次ぎ、先住部族やザビードの奴隷らによる小さな反乱が繰り返された。 そんな中、1442年にラスール朝のスルタン、アル=ア…

ラスール朝の落日、ターヒル家の日の出

学術都市ザビードと交易都市アデンを中心にして繁栄したラスール朝だったが、14世紀終わり頃から翳りが見え始める。ラスール朝は元々、外国からやってきた「余所者の支配者」によるスンナ派イスラム王朝であり、反抗的な現地部族やザビードの奴隷たちなど、…

はじまりの物語 (7)

#15世紀前半、激動期のイエメン。文献の入手が思ったより時間かかることが判明したので、歴史の部分だけ小出しにします。 15世紀に入ると、ラスール朝では上イエメンのザイド派や反抗的な部族との紛争が増え、またそれに伴ってアデン交易が衰退して、その権…

君の名は

これから出てくる、コーヒーの歴史に関わる人物の名前について。これまで、この「物語」の中でも、表記がけっこういい加減だったので再整理しておこうと思う。 アブドゥル=カーディル コーヒーの最初期の利用について記したアラビア語文献『コーヒーの合法…

はじまりの物語 (6.5)

#本編は現在、発注してる文献の入手待ち。ちょっと一息ついて。アラブ人の名前について。 ここまでの歴史でもちょくちょくでてきたが、ここから先、さらにいろいろなイエメン周辺の人名が頻出してくる。これがいろいろとややこしいので、先にちょっと整理と…

関連リンク

自家焙煎珈琲 椏久里 (ブログ)- http://blog.goo.ne.jp/agricoffee One Life in Abukuma Hill - Yahoo!ブログ (市澤さんのブログ)- http://blogs.yahoo.co.jp/cafeagrisi 言叢社ホームページ(出版元) - http://www5.ocn.ne.jp/~gensosha/index.html HO…

『椏久里の記録』

「椏久里(あぐり)」は、1992年に福島県飯舘村の市澤秀耕さん、美由紀さん夫妻が創業した自家焙煎コーヒー店です。二年前の震災による原発事故で、飯舘村は計画的避難地域に指定され、椏久里も休業を余儀なくされました。震災後、福島市野田町に新しく「椏…

この時代のコーヒーの可能性

イブン・スィーナー『医学典範』再考 以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130205#1360059618)9-13世紀のエチオピアの項で述べたように、10,11世紀のペルシアにおいて、アル・ラーズィーとイブン・スィーナーという二人のイスラム医学者が、その医…

ラスール朝時代

イエメン・アイユーブ朝の次に成立したのがラスール朝(1229-1454)である。ラスール家は元々、1180年*1にアッバース朝からイエメンに派遣された特使である、「ラスール」ことムハンマド・イブン・ハルンを父祖とする一族である。「ラスール Rasul」とは元々、…

エチオピア奴隷の王朝

上述したことをまとめると、ズィヤード朝の時代、下イエメン*1周辺には、 アッバース朝から来たズィヤード朝 下イエメンの先住部族(アック族、アシャーイル族、クライシュ族、マズヒジュ族など) 上イエメンのラシード朝 という3つの勢力が存在した。しかし…

独立イスラム王朝の成立

817年、ティハマ地方でアック族('Akk)とアシャーイル族(Asha'ir)という二大部族の反乱が起きた。この知らせを受けたアッバース朝のカリフ、マアムーンは、イブン・ズィヤード*1を将軍(アミール)に任命して派遣した。反乱が鎮圧された後、マアムーンは両部…

イスラム教の受容

575年、イエメンへのサーサーン朝ペルシアの介入によって、アクスム王国が撤退するとイエメンはサーサーン朝の占領下となった。サーサーン朝から派遣されたイエメン総督によって統治され、6世紀末には正式にサーサーン朝の自治州になった。7世紀初頭、ムハン…

はじまりの物語 (6)

#舞台をイエメンにうつして、6-14世紀頃の歴史。一応、ここ(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130122#1358867217)からの続き。 575年、サーサーン朝ペルシアがイエメンを支配 628年、サーサーン朝のイエメン総督バドハーンがイスラム教に改宗 632年、…

いったんまとめ

真偽のほどは置いておくとして、とりあえず、ここまでのエチオピアの歴史を追った流れから、以下のような仮説を提唱してみたい。 コーヒーノキ(葉、実、豆)の利用は、コーヒーノキが自生するエチオピア西南部で、先住民によって始められた。 9世紀以降、先…

この時代のコーヒーの可能性

この時代、特にアムダ・セヨンが各地に侵攻を行った14世紀以降は、エチオピア国内で大規模な人の移動が起こった -- 「撹拌された」と言ってもいいかもしれない。ソロモン朝は、エチオピア内陸部のダモトやハドヤに侵攻し、また東部から東北部のイスラム圏に…

イファトの末裔

ソロモン朝に破れた後、イファト・スルタン国はワラシュマ家のスルタンが世襲する、ソロモン朝の一属国の立場に追いやられた。しかしたびたびソロモン朝に対して反逆を繰り返し、その度にソロモン朝に制圧された。最初に傀儡のスルタンとされたジャマールッ…

シオンの王と闇の預言者

ソロモンI世の死後、ソロモンI世の子どもたち*1が後継者を巡って、5年間に亘る骨肉の争い(1294-1299)を繰り広げた。1299年、その事態を収拾するため、ソロモンI世の弟、ウェダム・アラドが王位に付き、1314年に亡くなるまで国を治めた。1314年にはウェダム・…

「ソロモンの屈辱」とマルコポーロ

ソロモン朝とショアやイファトのスルタン国の友好関係は、長くは続かなかった。おそらくその最大の原因になったものは、交易路を巡る衝突である。元々キリスト教国側は、アクスム王国の時代、その首都がアクスムやクバールにあった頃から、北のダフラク諸島…

ソロモン朝の「復興」

「ソロモン朝復興の祖」となる、イクノ・アムラクには多くの伝説・伝承が付随しており、どこからどこまでが史実なのかがよく判らないのが現状だ。少なくとも、彼がアクスム王国の最後の王ディル・ナオドの血統に連なる者、すなわちエルサレムのソロモン王と…

ショア周辺の国々の興亡

#ここまでのおさらいをかねて。 ショア・スルタン国 13世紀以降にエチオピアの「中心地」となるショア台地は、11世紀頃まで「ショアの女王」率いる先住民の土地であった。しかし、1063年に「Mayaの娘、Badit女王」が亡くなった後、11世紀後半にはこの地で、…