はじまりの物語 (6.5)

#本編は現在、発注してる文献の入手待ち。ちょっと一息ついて。アラブ人の名前について。


ここまでの歴史でもちょくちょくでてきたが、ここから先、さらにいろいろなイエメン周辺の人名が頻出してくる。これがいろいろとややこしいので、先にちょっと整理というか解説してみたい。


エチオピアの人名もややこしかったが、イエメンなどアラブ圏での人名は、特にいろいろややこしくて、いくつかの文献ではその読み違いによる混同が生じてそうだ。
基本的なルールとしては、下記のリンク先が非常にわかりやすくまとまっているので、是非参照されたい。


イエメンもアラビア半島に属するので、上のリンクのうち「部族編〜部族に属するアラブ人の名前を作るには(1)(2)」に沿って名前が付けられる。
大まかには、「本人の名前+"ibn"+父親の名前(+"ibn"+祖父の名前)」と言う感じでつなげ、それに出身部族や出身地を表す"al-○○"というのがくっつく。


父や祖父などの血統を示す名前(=ナサブ)を書くときに「ibn」で繋ぐのが、どうもアラビア半島の特徴らしい。日本語のカナ表記では「イブン」が繁用されるが、実際の発音は「ブヌ」に近く、英語表記では「bin」、あるいは略して「b.」とすることも多い。文献によっては「ben」と書かれてるものも、たまに見かける。


例えば、ラスール朝のスルタンの家系は

  1. 「ラスール」こと、ムハンマド・イブン・ハルン (Muhammad ibn Harun)
  2. アリー・イブン・ラスール (Alī ibn Rasūl, ラスールの息子アリー)
  • アル=マンスール・ウマル・イブン・アリー・イブン・ラスール (al-Mansur 'Umar ibn Alī ibn Rasūl, ラスールの息子アリーの息子マンスール・ウマル)
  • アル=ムザッファル・ユースフ・イブン・ウマル・イブン・アリー・イブン・ラスール (al-Muzaffar Yusuf ibn 'Umar ibn Alī ibn Rasūl, ラスールの息子アリーの息子マンスール・ウマルの息子アル=ムザッファル・ユースフ)

…といった具合に書いていける。実際には本人含めて4人以上の名を連ねることは無くて祖父の名前で止める。


場合によって、非常に有名で偉大な父祖がいれば、祖父や父の名前を略して、そちらを示すこともあるようだ。あるいは本人の名前すら示さずに、そちらだけ示す場合もある。

例えば、ズィヤード朝の初代スルタンは、通例「イブン・ズィヤード」と呼ばれ、フルネームは「ムハンマド・イブン・アブドゥラー・イブン・ズィヤード (Muhammad ibn Abd-allah ibn Ziyad)」で、しかもズィヤードは祖父ではなく、もっと上の祖先である。

また『医学典範』でブンカムを紹介した「イブン・スィーナー」も、フルネームは「アブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥラー・イブン・スィーナー Abū ʿAlī al-Ḥusayn ibn ʿAbd Allāh ibn Sīnā」で、父祖の名前で呼ばれている。

有名どころでは「ウサーマ・ビン・ラディン」を単に「ビン・ラディン」と表すのも、ある意味ではこれに近い。

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要するに、アラブの人名では「姓」にあたる部分がない(明確でない)、ということである。日本でも、かつては武士以外には名字が許されてなかった時代があったが、そのような状況を思い浮かべると判りやすいかもしれない。

例えば、ある村の外れに「吾作」という名前の者がいて、彼に「与作」という息子がいたら、普通は息子は「与作」とだけ呼ばれる。しかし村長の「権兵衛」のところにも「与作」という名の息子がいたら、「吾作の息子の与作」「権兵衛の息子の与作」と区別できる。あるいは「権兵衛の息子の、大工の与作」、もしくは「○○村(出身)の、吾作の息子の与作」みたいな感じで、職業や出身地などが名前の一部(=ニスバ)になったりする。そのうち、その家系から超有名人が出たら「吾作の(一族の)」でも皆に通じるようになったり、本人が有名になったら「○○村の」だけでもニックネームになって、その人物を皆思い浮かべるようになったりする…そんな感じに割と近そうだ。


もう一つ、アラブの史料で人名が厄介な理由の一つはおそらく、名前のバリエーションが日本人とくらべて少ない(というより日本が多いのだと思う)ことである。特にスルタンやその兄弟の名前などは、「過去の偉大な王」から名前を取ることがおおいためか、アリー、ムハンマド、アフマド、ナースィルなど、数代違いで同名の人物が現れてきて重複が多く混乱しやすい。基本的には、父の名前とセットにして扱えば混同を避けられることが多くなるのだが、時々父の名前も同じというケースが出てきたりして意外と厄介だ。一つの世代、一つの地域に限れば、このような例は少なめで混同は避けられるのだろうけれど、長期間、歴史を追っていく場合にはややこしい。