この時代のコーヒーの可能性

この時代、特にアムダ・セヨンが各地に侵攻を行った14世紀以降は、エチオピア国内で大規模な人の移動が起こった -- 「撹拌された」と言ってもいいかもしれない。ソロモン朝は、エチオピア内陸部のダモトやハドヤに侵攻し、また東部から東北部のイスラム圏に侵攻して、その度に人々の入れ替わりが生じた。このことがコーヒーの伝播にも関与した可能性を考えてみたい。

コーヒーノキ伝播の可能性

アムダ・セヨンの治世の初めに侵攻されたダモト(イルバボル)は、エチオピア西部の、多様なコーヒーの野生種が自生するエリアである。続いて滅ぼされたハドヤは、西南部のカファ地方への入り口に当たる場所で、ここにもコーヒーの野生種が存在している。またハドヤが当時、奴隷取引の町であったことから、さらに西南部の人々がここで奴隷として売られていただろうことも想像に難くない。アムダ・セヨンの侵攻によって、ダモトやハドヤから逃れて、他の地域に移住して行った人がいたことは疑いようがない。中でも「闇の預言者ベルアム」のエピソードは、ハドヤからイファトへの移動が起きたことを物語っている。さらにイファト・スルタン国への侵攻は、イファトからゼイラへの移動を生み、さらに15世紀の初めのワラシュマ家の王族のように、ゼイラからイエメンに渡る人がいたことが判る。


すなわち、14世紀から15世紀にかけて、それも比較的短期間に

  • エチオピア西南部(ダモト、ハドヤ) → イファト → ゼイラ → イエメン


という、人々の移動があったことを示している。


イエメンにおいては、イブン・バットゥータが1330年頃にザビードからタイッズ、サナア、アデンへと旅した際の記録に、コーヒーの飲用やコーヒーノキを目撃したという記載は見いだせず、1470年頃に亡くなったゲマルディン(ジャマールッディーン*1)がアデンでコーヒーの利用を合法化していたというアブドゥル=カディールの記録が最初のものとなる。アブドゥル=カディールの記録から15世紀半ばのイエメンではコーヒーの実(ギシル。生豆を採った後の殻に相当する)の部分を利用していたことが示唆される。ギシルの利用は今でもイエメンなどでみられる*2利用形態で、現代では専ら生産地に限定して見られるものである。このことは15世紀半ばまでにはイエメンにコーヒーノキが伝播され、その栽培が始まっていた可能性を示唆している。


この「14世紀から15世紀」という時期は、上述した通り、エチオピアで大規模な人々の移動が起きた時期と一致している。直接の証拠を示す事はできないものの、この移動に伴って、コーヒーノキそのものが14世紀半ばから15世紀半ばまでの間に、エチオピアの西南部から東部を経て、イエメンに伝播されていた可能性は、十分に考えられるのではないだろうか。「物語」的には、「1410年、イファトを追われてきたワラシュマ家の王子が、イエメンに逃げたときにコーヒーノキを伝えた」などと書くと、いかにもそれっぽくてメディア受けする話になりそうだが、実際のところどうかは判らないので、とりあえず口を慎んでおく。

「カフワ」の可能性:ハラーとグラゲ

この時代に関連して、もう一つ指摘しておきたいことがある。それは、福井勝義教授によるエチオピアでの言語調査(淡交社『茶の文化・第二部』)の結果に基づく。以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130104)述べたのと同じ内容を以下に再掲する。

エチオピアにはさまざまな言語(語族)があるが、ほとんどの地域では、コーヒーを「ブンナ buna/ブン bun/ボノ bono」と呼ぶ。これは「豆」を意味するアラビア語の"bunn"に由来する言葉と言われており、コーヒー豆やコーヒーノキを意味する言葉として用いられる。また一部の地域(ハラールや、カファ北部のグラゲ地区)ではこれに加えて「カフワ qahwa」という呼び方も存在する。これはアラビア語で元々「ワイン」を意味した"qahwa"に由来する言葉で、コーヒー飲料を意味する言葉になっている。ハラールにおいても、"qahwa"はコーヒー豆だけでなく葉や殻などを利用した飲料全般を指す言葉として用いられ、葉から作ったものは"qutti qahwa"、豆から作ったものは"bun qahwa"、殻から作った物は"hasar qahwa"と呼ばれる。一方西南部では、上述したマジャンギル族の「カリ kari」、ボディ族の「ティカ tika」、ギミラ族の「ギア gia」など、この"buna型"とも"qahwa型"とも異なる、いくつかの名称が部族ごとに多様に用いられている。

エチオピアの、西南部を除くほとんどの地域は、コーヒーを「ブン/ブンナ/ボノ」と呼ぶ。これは「コーヒー豆」に対する名称で、いわゆるセム語系のアラビア語から輸入された語彙であると考えられている。これらの地域で「コーヒー豆」は、アラビア語を話す人たちから、その名称と共に紹介されたと考えることができる。ここで注意したいのは、ブン/ブンナ/ボノは「コーヒー豆」を指す言葉であって、「飲料としてのコーヒー」を指す言葉ではないことだ。「飲料としてのコーヒー」を示す語彙が導入されなかったということは、これらの地域では「飲料としてのコーヒー」が人々に(積極的には)語られることがない、つまり根付いてこなかったことを示唆している。これらの地域では、コーヒーは自分たちが消費するものではなく換金作物という位置づけだったのである。これに対して、アラビア語で「飲料としてのコーヒー」を示す「カフワ/カーワ」が存在する地域が、二箇所だけ存在している。ハラー(ハラール)とグラゲである。


ハラーは元々イファトからゼイラの間に位置する山地の東部一帯を指す。後に行政区名に使われたり、「ハラルゲ」が州名になったり、地域やその中心にあたる街の名も表記ぶれがあって、「ハラー(ハラール)」であったりと紛らわしいが、ここではざっくりと「ハラー」を地域名、「ハラー(ハラール)」を街名としておこう。「ハラー(ハラール)」という街が史料にあらわれるのは意外と新しく、1554年にアダル・スルタン国の首都として建設されたのが最初であると言われている。

ただし「ハラー」は、イファトからゼイラにかけて広がる「アダル地方」南の山地の東部であり、9世紀以降に隊商路として開拓されていたのは言うまでもない。1108年にイスラム化した"Gbbah"の居住地も、おそらくはハラーに届いていただろう。マルコポーロが記したソロモンI世とアダルの戦いのときも、イスラム教徒らが山岳部を拠点に戦っていたことが伺える。このため、13世紀終わり頃にはイスラムの勢力圏に含まれていたと考えられる。現在、ハラーにおいて使われている言語(ハラリ語)は、エチオピアの言語の中でも、特にセム語系の影響を強く受けており、おそらくはイスラム教徒らのアラビア語の影響を受けたことが指摘されている*3


もう一箇所のグラゲ地区はエチオピアの西南部に位置している。ここに「飲料としてのコーヒー」を意味するアラビア語由来の「カフワ」の語彙が存在するのは興味深い。だが実はこのグラゲ地区はハラーからの入植者が拓いたと伝えられている*4。すなわち、ハラーにおいて存在した「ブン」「カフワ」の二つの違いが、グラゲ語にそのまま持ち込まれたと考えられる。このハラーからグラゲへの入植が、いつ頃進んだのかは明らかではない。しかし伝承によれば、アムダ・セヨンI世の治世かその少し後だと言われており、この説に従うならば、14世紀頃に「ブン」「カフワ」の二つの語彙を持つ人々がハラーにいて、彼らがグラゲに移住した、という仮説が立てられるだろう。もちろん本当にそう考えていいのかどうか*5、かなり微妙な点もあるけれど、一つの可能性として提唱してみたい。

*1:ワラシュマ家のジャマールッディーンとは直接の関係がないようだ。アラブではそれなりに見られる名である

*2:近年では、中南米でもカスカラと呼ばれ、精製の際に生じたパルプ(果肉+果皮)を乾燥させたものを、茶のように利用しようという試みが始まっている。

*3:それ以外の可能性としては、セム語族である北部のティグレ人がハラーに移住した可能性も指摘されている。

*4:Richard Pankhurst "The Ethiopian Borderlands" Chap.9

*5:例えば、「カフワ」は当時まで「ワイン」を意味しており、ハラーとグラゲそれぞれ独立に「ブン」から作られる飲料に対して「カフワ」という名称が用いられるようになった可能性とか、あるいはそもそもこの移住が長期間に亘って行われ、後代になってから「カフワ」の語彙が導入された可能性など、考えればきりがない。