ラスール朝時代

イエメン・アイユーブ朝の次に成立したのがラスール朝(1229-1454)である。ラスール家は元々、1180年*1アッバース朝からイエメンに派遣された特使である、「ラスール」ことムハンマド・イブン・ハルンを父祖とする一族である。「ラスール Rasul」とは元々、「伝令(メッセンジャー)」という意味の言葉である。ただしアラビア社会において、このように本名以外の「字名」で呼ばれるのはごく一部の限られた人物だけであり、ラスールはその職務への忠実さから、イエメンの人々の尊敬を集めた人物であったという。ラスールはトゥルク系遊牧民トゥルクマーン、オグズ)の族長出身であった。


ラスールの息子、アリー(アリー・イブン・ラスール)は1222年に、イエメン・アイユーブ朝の最後のスルタンとなるマスウド・ユースフ(在位1215-1228)によってマッカの総督に任命された。そして1228年にマスウドが亡くなると、アリーの息子、マンスール・オマール(マンスール・オマール・イブン・アリー)が新たにザビードラスール朝を興した。この頃アイユーブ朝の本国は十字軍との対立で忙しくてイエメンどころではなく、その隙を突いて独立を果たした形である。彼は続いて、上イエメン地域のザイド派との戦いにも勝利して、サヌア周辺へも勢力範囲を拡大した。またマッカに駐留しつづけていたアイユーブ朝の軍隊を1241年に撤退させることに成功した。

さらにラスール朝2代目スルタン・ムザッファルの時代には、ハドラマウト地方のズファールや、バール・アル・アジャム(Barr al Ajam)と呼ばれた、現在のソマリアのアデン湾沿岸部にも遠征して、アデン湾から紅海の入り口にかけての一帯をその勢力下に収めた。こうしてラスール朝はイエメンを制圧し、その時代は200年以上にわたる繁栄が続く、イエメンの黄金期になったのである。


以下にラスール朝の主要な都市について概説したところで、今回の歴史については一区切りにする。

学術都市 ザビード

ラスール朝時代のイエメンの都市で特筆すべきは、やはりザビードであろう。

ラスール朝以前のザビードは、軍事的政治的拠点としての意味が強かったが、ラスール朝の時代には、学術・宗教の都として大いに発展を遂げた。ラスール朝以前、ザビードには若干のマスジド(集団礼拝所、モスク)がある程度で、アイユーブ時代に立てられたマドラサ(学院、イスラムの学校)が一つあるのみであった。しかしラスール朝に入ると、歴代スルタンやその妻娘たちがモスクやマドラサを相次いで建設させ、1392年にはその総数は230*2に上っていたという。また当時の死亡録からの推定では、ラスール朝イエメンの学者(ウラマー)のおよそ4分の1がザビードで活動していたと概算されるようだ*3


ラスール朝ザビード学術都市とした理由については、栗山保之「ザビード : 南アラビアの学術都市」に詳しい。そこには大きく二つの理由があった。(1)イエメンの人々に対してラスール朝の優位性を示す必要性、(2)上イエメンのザイド派への対抗、である。

ラスール朝のルーツは、ペルシアのアッバース朝から送り込まれた「ラスール(伝令)」であり、その子孫がアイユーブ朝に承認されたというもので、イエメンに元から暮らすアラブ人部族らにとっては「後からやってきた余所者の外国人が、自分たちアラブ人を支配する支配者の座についた」ことに他ならない。そこでラスール朝は、自分たちが先住部族たちに比べて進んだイスラム教の知識を持つイスラム学者であり、それによって人々を導く「指導者」の立場であることを示そうとしたのである。

またこの当時、上イエメンのラシード家イマームが率いるザイド派の諸部族は、ティハマ地方などの下イエメンに向けて、隙あらば南侵しようとする動きを見せていた。この南侵においては単純な武力だけでなく、イスラムの教義に対する学問(法学)も重要な力になっていた。ザイド派は、各地のシーア派から優れた学者を多く招聘しており、その法学を基盤として自分たちの正統性と先進性を周囲の部族に示すことで彼らを味方につけ、自分たちの領域を拡大しようとしていたのである。

ラスール朝は、軍事面ではタイッズの要塞に拠点を移してザイド派の南侵に対抗したが、それだけではなく学術上でも対抗する必要があった…文字通りの「理論武装」である。そして、そのためにザビードに多くの学問・宗教施設を建設し、多くの学者を招いて、一大学術都市に発展させたのである。


ザビードはまた、アラビア半島の中では例外的に緑に恵まれたティハマ地方のほぼ中央にあって、ナツメヤシや麦、モロコシなどの農作物に恵まれた立地であった。政治や軍事の中心がタイッズに移った後でも、重要拠点の一つであったことには代わりがなく、学術のみならず、経済・政治・軍事上も大きな存在であったと考えられる。またザビードはマッカ巡礼の中継地でもあり、多くの旅行者や巡礼者、学者らがこの地を訪れている。14世紀の大旅行家イブン・バットゥータも1330年頃にイエメンを旅行したとき、ザビードにしばらく滞在して学者たちからの歓待を受けたことが『三大陸周遊記』に記録されている。

首都 タイッズ

ラスール朝の成立当初、ラスール家のスルタンはザビードを拠点としていたが、やがて彼らはタイッズに居住地を移した。タイッズは山間の外敵からの防御に非常に優れた場所に位置しており、「イエメンの諸要塞の中でも最も大きい」と言われる要塞がそこに築かれ、「王の玉座・王の要塞」と呼ばれた。ラスール朝の勢力圏は上イエメンの一部にまで届いていたものの、依然として北の山岳地帯にはザイド派の部族が残っていた。ラスール家がタイッズに軍事拠点を移したのは、彼らザイド派勢力に対抗するためだと言われている。ズィヤード朝時代にはザビードが周辺部族を牽制するために首都となっていたが、ラスール朝時代にはその役割がタイッズに移ったと言ってもいいだろう。「ラスール家のお膝元」となったタイッズにも、多くの宗教・学術施設が建設されたが、ザビードに比べるとその数は少なかったようだ。ザビードラスール朝の「学術と宗教の首都」であるとすれば、タイッズが「政治と軍事の首都」であった、と言えるかもしれない。

交易港 アデン

アデンは紅海とインド洋を結ぶアデン湾に面し、昔から海上交通の重要拠点として知られた港である。この時代のイエメン沿岸部には、この他にザビードの外港であるアフワーブ*4ハドラマウトの主要港であるシフルなどの港があって、いずれも交易で栄えていたが、その中でもアデンは周辺海域とアラビア半島との交易の中心的役割を果たす主港であった。特に、10世紀初頭のファーティマ朝の成立によって紅海交易の重要性が増すと、交易港としてのアデンの重要性も増加した。ラスール朝以前にもズライ朝やキーシュ島などの勢力がイエメンの中でも特にアデンに注目して、その支配を企てた大きな理由だったと思われる。


ズライ朝やアイユーブ朝、そしてラスール朝など、アデンを支配した王朝はアデンでの交易振興に積極的であった。交易船を海賊の襲撃などから守るための、いわゆるシーレーン海上交通路)の維持と、入港管理を徹底した。さらに、かつてファーティマ朝が紅海交易で行ったのと同じように、シャワーニー船団(護衛船団)によって海賊の襲撃から交易船を保護する方式を採った。その代わり護衛船団の維持費用として、商人たちは「シャワーニー税」という一種の関税を余分に課税された。この方式はイエメンではアイユーブ朝時代に採用され、ラスール朝もそれを引き続き実行していた。


ラスール朝にとって、交易によるイエメン国内の経済振興だけでなく、港を利用する商人たちからの関税収入も直接の財源となっていた。このため、アデンはラスール朝の「交易と経済の中心」であったと言えるかもしれない。その一方で、アデンにおいては宗教や学術施設、学者の数はザビードやタイッズと比べてかなり少なく、割と純粋な「商人たちの町」であったことが伺える。

北の都、サヌア

現在のイエメンの首都であるサヌアも、この当時ラスール朝に属する一都市であった。当時サヌアには多くの人家があり、多くの人が暮らす大きな町であったことが伺える。しかしラスール朝の関係者がサヌアで建設した宗教・学術施設は極端に少ない。これは、この地域が北方に近く、ザイド派の人々が近隣に暮らしていたためであったと考えられている。

参考

*1:この年、アッバース朝ではナースィルがスルタンに即位し、アイユーブ朝の呼びかけに応じて、キリスト教徒らが占拠していたエルサルム王国に対する「ジハード」を宣言している。その伝令役をつとめた人物かもしれない。

*2:おそらく小さなものまで含めた数

*3:栗山保之「ザビード : 南アラビアの学術都市」オリエント 37(2), 53-74, 1995

*4:12世紀頃まで、ザビードの外港はガラーフィカであったが、ラスール朝時代にはその南に新しくアフワーブ港が開かれていた