イファトの末裔、ワラシュマ家の到来

1403年ないし1410年、エチオピアでソロモン朝との戦いに敗れたイファト・スルタン国ワラシュマ家の「最後のスルタン」、サーダッディーンII世が、逃亡先のゼイラで殺された。この時、彼の10人の子どもがイエメンに逃げ延びたと言われている。1415年、彼の長子サブラッディーンII世が再びゼイラに戻り、アダル・スルタン国を興した。このことについては、以前( http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130213 )も述べた。


ワラシュマ家の人々、あるいはそれと一緒にやってきた者たちが、本当にエチオピアからイエメンに、コーヒーの利用やコーヒーノキそのものを持ち込んだかどうかについては「わからない」としか言いようがない。また、そもそも彼ら自身がコーヒーを利用する者だったかどうかも不明である。しかし、その可能性は考慮に値するだろう。

アブドゥル=カーディルの『コーヒーの合法性の擁護』でも、イエメン以前に「イブン・サーダッディーン Ebn-saad-eddin」すなわち「サーダッディーンの息子」の国でコーヒーが使われていた可能性は否定できないという趣旨の言及がある。この「イブン・サーダッディーンの国」がどこを指すのかについて、ド・サッシーが脚注(34)で詳しく考察しており、ゼイラかアダル付近のどこかを指すだろうことや、彼らがイファト・スルタン国に渡った"Omar et surnommé Wahchama"すなわち、ウマル・ワラシュマの子孫であることなどを指摘している。


ワラシュマ家の人々がイエメンのどこに逃げ延び、どのような生活を送っていたのかについては全く判らない。ただし、この当時はまだラスール朝下でアデンの交易が廃れる前で、またワラシュマ家がゼイラに帰還する際には、おそらくイスラム商人たちに紛れていただろうことから、ゼイラとの行き来の際に、アデンが利用された可能性は高そうだ。

また、ワラシュマ家の一部がザビードに移住した可能性も高そうに思える。ラスール朝時代、学術都市として繁栄していたザビードは、同時にエチオピア由来の奴隷たちが多く暮らす都市でもあったからだ。「奴隷たち」とは言っても、イスラム世界におけるイメージは後世の西欧社会のそれとは少し異なり、「マムルーク」のように奴隷階層の出身者たちが力を付けて、王朝を成立させた例も少なくない。マムルークペルシャやトルコの奴隷階層出身の軍人であったのに対し、エチオピア出身の黒人を起源とする彼らは「ビード」と呼ばれた。彼らは11-12世紀にザビードで独自の王朝(ナジャーフ朝)を成立させており、イエメンにおいて無視できない存在であった。

ラスール朝の頃、アビードは社会的立場(職業など)の異なるグループに分かれていたものの、概ね「自分たちの人種や出身に関するアイデンティティ」を持ち、エチオピアに対して共通の、特別の思いを抱いていたようだ。このような背景から「エチオピアからやってきた人々」を迎え入れる素地が、ザビードの中に存在していたかもしれない。

もっとも、「エチオピアからやってきた」とは言っても、ワラシュマ家の人々は元々、マッカの名門クライシュ族出身なので、奴隷たちのアイデンティティに直接訴えることはできなかったかもしれない。しかしそれならばそれで、ザビード近郊のティハーマ地方にはクライシュ族の人々が暮らしており、彼らがワラシュマ家の人々を迎え入れた可能性もあるだろう。