イスラム教の受容

575年、イエメンへのサーサーン朝ペルシアの介入によって、アクスム王国が撤退するとイエメンはサーサーン朝の占領下となった。サーサーン朝から派遣されたイエメン総督によって統治され、6世紀末には正式にサーサーン朝の自治州になった。

7世紀初頭、ムハンマドが始めたイスラム教はまたたく間に広まりはじめ、その動きは周辺の大国にとっても無視できないものとなっていた。それはサーサーン朝ペルシアと、そしてマッカ(メッカ)やマディーナ(メディナ)に隣接したイエメンにとっても同様であった。628年頃、サーサーン朝ペルシアの皇帝、ホスロー2世は、イエメンの総督バドハーンに対して、ムハンマドを自分の前に出頭させるように命を下した。バドハーンはムハンマドのもとに二人の使者を送ったが、ムハンマドはそれを拒絶し、こう予言した。「王はもう間もなく死ぬというのに、私が行く必要があるのか」と。この返事を聞いたバドハーンが、至急ペルシアの都クテシフォンに使いを送ったところ、果たしてホスロー2世は、長男(カワード2世)に暗殺されていた*1。この知らせを聞いたバドハーンはムハンマドに心服してイスラム教に改宗し、イエメンはイスラム(アラブ)帝国の一部となった。


ムハンマドが632年に亡くなると、その後の覇権を巡って、イスラム帝国の一部に組み込まれていた部族が独立の動きを見せた。その中には「ムハンマドの次の預言者」を僭称する者も現れ、彼らはイスラム教徒からカッダーフ(偽預言者)と呼ばれ、彼らに従ってイスラム教を棄てた者たちは棄教者または背教者(リッダ、アフル・アルリッダ)と呼ばれた。ハニーファ族のムサイリマや、タミーム族の女預言者サジャーフなどがその代表であるが、いずれも最終的には、ムハンマドの遺志を継いだ正統カリフらによって制圧された。イエメンでも、ティハマ地方でアスワドという名の預言者が、マズヒジュ族のカイス・ブン・アルマクシューフと結託して蜂起し、当時のカリフを追い出して首都サヌアを一時的に占拠したものの、最終的には鎮圧された*2。またハドラマウト地方では633年初頭にキンダ部族の王アシュアス・ブン・カイスが棄教して大規模な反乱を起こしたが、鎮圧されて再びイスラム教を受け入れた*3

その後、ウマイヤ朝(661-750年)の時代、アッバース朝(750年-)の時代になっても、イエメンはイスラム帝国の一部として統治されていた。

参考

*1:このホスロー2世の悲劇については、後にペルシアの大詩人ニザーミーが『ホスローとシーリーン』の題材としている。

*2:当時のイエメンでは、バドハーンの死後、後を継いだファイローズが総督として統治していた。マズヒジュ族によりサヌアの有力者数名が暗殺され、ファイローズは一旦、山間部に逃げ出し、そこで戦力を整えてから反撃し鎮圧した。この時すでに偽預言者アスワドはカイスと不仲になり、殺されていたという。

*3:ただし、アシュアスはその後再び反乱を起こした。