2013-05-01から1ヶ月間の記事一覧

おさびしウサブ山のコーヒー

ラテン語版"Gihan numa"によれば、この「ウサブの地」は当地で暮らす人々の耕地の一部ではあったが、コーヒー以外に食べられるものがない場所だった、とされている。他の作物がない「さびしい土地」だった最大の理由は、その標高によるものだろう。コーヒー…

シャイフ・ウマルの足跡

話をシャイフ・ウマルに戻そう。彼の行動は「ダルヴィーシュ」そのものであると言えるだろう。 彼は(フマイザラの)「アッ=シャーズィリーの奇跡の水」を携えて、モカの地に船でやってきた(=放浪の末に来訪)。 彼はモカの町の外に小屋を建てて暮らし(…

民衆へのスーフィズムの普及

ひとまず神秘的な部分の話は置いておくとして、シャイフ・ウマルの伝説から確実に読み取れることがある。それは13世紀以降のエジプトで信奉者を増やしたシャーズィリーヤ教団が、イエメン沿岸部(ティハーマ地方)にも進出していたということだ。 この当時の…

二つの伝説の比較

このシャーズィリーヤ教団に伝わる言い伝えと、シャイフ・ウマルのコーヒー発見伝説の前半部分には、非常に類似した点が見られる。それは、(1) 死に瀕したアッ=シャーズィリーは、清浄で甘い水を湧き出させた、 (2) さらに彼の死後、弟子のもとにベールで顔…

シャーズィリー異聞

さて、シャーズィリーヤ教団の流れを組むスーフィー教団には、今でもアッ=シャーズィリーを聖者の一人として崇め、その言行録を「教え」の一つとして伝えているところがある。それを見ると、アッ=シャーズィリーが亡くなるときのエピソードとして、興味深…

スーフィズムとシャーズィリーヤ教団

さて『世界の鏡』に書かれたシャイフ・ウマルの伝説であるが、そもそもこのウマルなる人物が実在したかどうか、これが結構怪しい。まず彼の名前は「ウマル/オマール Omar」としか伝わっておらず、父の名前や出身も不明である。 一方、彼の師として名前が出…

ユーカースとの比較

シャイフ・ウマルのコーヒー発見伝説を広く認知したのは、何と言ってもユーカース『オールアバウトコーヒー』であろう。しかし、そこで紹介されている内容には、上記のものと比べていくつかの相違が見られる。 William H Ukers: "All About Coffee": EARLY H…

シャイフ・ウマルの伝説

ド・サッシーの脚注と、ラテン語版 Gihan numa に書かれた内容から読み取れる、シャイフ・ウマルの伝説は以下のような内容だ。 ヒジュラ暦656年(西暦1257/8年)、(アレクサンドリアの)シャイフ・アブル=ハサン・アッ=シャーズィリーが、スアキン経由で…

はじまりの物語 (10)

#少し回り道して、「シェーク・オマール」ことシャイフ・ウマルのコーヒー発見伝説について検証。 「コーヒーの起源」は、はっきりした証拠が残っておらず、いくつもの仮説が存在している。中にはかなり怪しげな、古代ギリシャや聖書に起源を求めるようなも…

「カフワの原料」の伝来?

もしこの当時のイエメンで、実際にカートが利用されていたならば、その植物そのものがエチオピアから伝わっていたと考えた方がよさそうだ。現在のイエメンにおいて、カートの葉は摘んだ後すぐに消費される「生鮮食品」である。乾燥させると効力が減ってしま…

カフワの始まり?

アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーの生涯についてはよく判っていない。ただ、その没年は1418年だとされている。18世紀後半にモカで彼の話を聞いたニーブールも「およそ400年前の人物」と記録しており、14世紀後半から15世紀初頭の人物だったと見…

「カフワ」とコーヒー

もう一つ、この時代で注意して区別する必要があるのは「カフワ qahwa」という言葉が指すものである。この「カフワ」という言葉が、コーヒーの語源になったという説は良く知られているが、この当時までに「カフワ」が指していたものとしては、次のように複数…

薬・嗜好品・飲み物

11世紀初頭のイエメンで、イブン・スィーナーの言う薬用としてのコーヒー「ブンカム」が存在していた可能性については、前(2013-2-20)にも述べた。しかしこの古い時代の「薬としての」利用方法と、15世紀以降のアラビア半島での「嗜好品として」、そして「…

イファトの末裔、ワラシュマ家の到来

1403年ないし1410年、エチオピアでソロモン朝との戦いに敗れたイファト・スルタン国ワラシュマ家の「最後のスルタン」、サーダッディーンII世が、逃亡先のゼイラで殺された。この時、彼の10人の子どもがイエメンに逃げ延びたと言われている。1415年、彼の長…

この時代のコーヒーの可能性

ユーカースが著した"All about coffee"の巻末にある年表( http://www.web-books.com/Classics/ON/B0/B701/42MB701.html )には、以下のような記載が見られる。 1454[L]―Sheik Gemaleddin, mufti of Aden, having discovered the virtues of the berry on a …

はじまりの物語 (9)

ここから、15世紀のイエメンでのコーヒーの歴史をちょっとずつ、ひもといていきます。 (15世紀以前) 9世紀- エチオピアで、キリスト教徒(アクスム王国)とイスラム教徒(アラブ商人)が内陸部に進出。西南部エチオピア人の奴隷取引が始まる 925 ペルシャの…

ザビードとアデン

ここでラスール朝末期からターヒル朝前半において、ザビードとアデンがそれぞれどのような状況下にあったのかを整理してみたい。 ザビード ラスール朝時代に学術・宗教の街として大いに発展したザビードであったが、1442年のラスール朝スルタン、アル=アシ…

アリーの治世:後半(1465-78)

アーミルI世の死後、ターヒル朝イエメンでは反乱分子の蜂起が相次いだ。1465年、イッブ近郊のズー・ジブラーでは、前年に和平を結んでいたフバイシー族が再び反乱を起こし、その後スルタンに鎮圧された。またティハーマ地方の諸部族も不穏な動きを見せ、ティ…

アリーの治世:前半(1460-5)

1460年、アーミルI世の承認を受けて、アリーが二代スルタンとなった。とは言え、実質的には兄弟統治体制に変化があったわけではなく、その治世の最初の5年間(アーミルI世が戦死するまで)は、ほとんど先代から連続した時代と考えてよさそうだ。アーミルI世…

アーミルI世の治世(1454-60)

ターヒル朝成立直後のアーミルI世の治世で、主な紛争の一つは、ティハーマ地方の反抗的な部族であったマアジバー族と、クライシュ族による反乱である。彼らとターヒル家の関係は非常に複雑だが*1、マアジバー族は当初からターヒル朝に反抗的であった。クライ…

アーミルI世とアリーの時代(1454-1478)

初代スルタン、アーミルI世と二代スルタン、アリーの時代は、実質的にはターヒル家の五人兄弟の中で、傑出していた四男(アーミルI世)と、長男(アリー)による合同統治体制であった。この体制はアリーがスルタンに即位した1460年以降も続き、1465年にアー…

はじまりの物語 (8)

#ターヒル朝前半 (1454-1478) の歴史。ほとんどPorter *1の抄訳。 15世紀後半から16世紀初頭にかけて、四代のスルタンによって続いたターヒル朝時代の前半 -- イスラム圏の史料にコーヒー利用の記録がはっきりと出てくるようになるのは、この時代である。タ…