ショア周辺の国々の興亡

#ここまでのおさらいをかねて。

ショア・スルタン国

13世紀以降にエチオピアの「中心地」となるショア台地は、11世紀頃まで「ショアの女王」率いる先住民の土地であった。しかし、1063年に「Mayaの娘、Badit女王」が亡くなった後、11世紀後半にはこの地で、マッカ(メッカ)のマクズム家の血を引くスルタンが「ショア・スルタン国」を興した。1108年頃には、ショアの東に位置する前衛山からハラーの山塊にかけて暮らす"Gbbah"の部族がイスラム化された。この地域は、後のイファト、アダル、そしてハラーの一部に到達する地域だと考えられ、ゼイラからショアへ至る「イスラム教アラブ商人の道」が、この頃、本格的にイスラムの勢力下になったと考えて良いだろう。ただしこの一帯は、ショアのスルタンの影響があったとは言え、それぞれの地域の部族が独立したイスラム共同体を作った、一種のイスラム連合のような状態であったらしい。


ショア・スルタン国では、1128年にイスラム教徒とキリスト教徒らの衝突があり、キリスト教徒らが北方のアムハラへと排除された。ショア・スルタン国は、その後も南侵を目論むザグウェ朝との関係こそ悪かったものの、先住民とイスラム商人が共に暮らす土地柄のためか、いろいろな部族や宗教について、いくらか寛容であったようだ。13世紀前半の、テクレ・ハイマノトによる布教活動の成果などからもそのことが伺える。テクレ・ハイマノトはハイク湖の近くにあるイステファノス修道院にいた修道僧であり、13世紀頃、異教徒の先住民である旧ダモトの王族(Mota Lame)らに洗礼を施してキリスト教に改宗させたことでも知られ、ショア地方にキリスト教を広めたエチオピアの聖人である。また後にソロモン朝を復興させたイクノ・アムラクの例からも、キリスト教徒のうちザグウェ朝と対立関係にある者たちも、ショアで匿われながら暮らしていたことが伺える。

イファト・スルタン国

その後、イスラム化した地域のうち、ショア台地への「入り口」にあたるイファトが交易の要所となって栄えた。13世紀(おそらく前半)にはマッカのクライシュ族出身のウマール・ワラシュマがイファトのリーダーとして頭角を表した。彼はイファトのスルタン(首長)を名乗り、こうして彼の血を引くワラシュマ家のスルタンが世襲する、「イファト・スルタン国」というスルタン国が勃興した。ワラシュマ家は、クライシュ族ハシム家の血を引くと言われているが、一説にはダモト出身の先住民の血が入っていたとも言われている。イファト・スルタン国もショア・スルタン国も、いわゆるスンナ派スルタン国だが、イファト・スルタン国の方がやや強硬的だったようで、後にショアやソロモン朝と紛争を起こすことになる。

ザグウェ朝

ザグウェ朝は1181-1221年にかけて、ラリベラ王の治世に最盛期を迎える。しかしその晩年には、すでに王朝に翳りがみえはじめていたようだ。ラリベラ王の後は、ラリベラの甥(ラリベラの先王=兄 の息子)にあたるナアクエト・ラアブの治世が約40年続き、その後をラリベラの息子イェトバラク(Yetbarak)が継いだものの、長くは続かず、13世紀後半には後継者を巡る争いが生じた。その期に乗じて叛旗を翻したのがイクノ・アムラクである。