2013-02-01から1ヶ月間の記事一覧

この時代のコーヒーの可能性

イブン・スィーナー『医学典範』再考 以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130205#1360059618)9-13世紀のエチオピアの項で述べたように、10,11世紀のペルシアにおいて、アル・ラーズィーとイブン・スィーナーという二人のイスラム医学者が、その医…

ラスール朝時代

イエメン・アイユーブ朝の次に成立したのがラスール朝(1229-1454)である。ラスール家は元々、1180年*1にアッバース朝からイエメンに派遣された特使である、「ラスール」ことムハンマド・イブン・ハルンを父祖とする一族である。「ラスール Rasul」とは元々、…

エチオピア奴隷の王朝

上述したことをまとめると、ズィヤード朝の時代、下イエメン*1周辺には、 アッバース朝から来たズィヤード朝 下イエメンの先住部族(アック族、アシャーイル族、クライシュ族、マズヒジュ族など) 上イエメンのラシード朝 という3つの勢力が存在した。しかし…

独立イスラム王朝の成立

817年、ティハマ地方でアック族('Akk)とアシャーイル族(Asha'ir)という二大部族の反乱が起きた。この知らせを受けたアッバース朝のカリフ、マアムーンは、イブン・ズィヤード*1を将軍(アミール)に任命して派遣した。反乱が鎮圧された後、マアムーンは両部…

イスラム教の受容

575年、イエメンへのサーサーン朝ペルシアの介入によって、アクスム王国が撤退するとイエメンはサーサーン朝の占領下となった。サーサーン朝から派遣されたイエメン総督によって統治され、6世紀末には正式にサーサーン朝の自治州になった。7世紀初頭、ムハン…

はじまりの物語 (6)

#舞台をイエメンにうつして、6-14世紀頃の歴史。一応、ここ(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130122#1358867217)からの続き。 575年、サーサーン朝ペルシアがイエメンを支配 628年、サーサーン朝のイエメン総督バドハーンがイスラム教に改宗 632年、…

いったんまとめ

真偽のほどは置いておくとして、とりあえず、ここまでのエチオピアの歴史を追った流れから、以下のような仮説を提唱してみたい。 コーヒーノキ(葉、実、豆)の利用は、コーヒーノキが自生するエチオピア西南部で、先住民によって始められた。 9世紀以降、先…

この時代のコーヒーの可能性

この時代、特にアムダ・セヨンが各地に侵攻を行った14世紀以降は、エチオピア国内で大規模な人の移動が起こった -- 「撹拌された」と言ってもいいかもしれない。ソロモン朝は、エチオピア内陸部のダモトやハドヤに侵攻し、また東部から東北部のイスラム圏に…

イファトの末裔

ソロモン朝に破れた後、イファト・スルタン国はワラシュマ家のスルタンが世襲する、ソロモン朝の一属国の立場に追いやられた。しかしたびたびソロモン朝に対して反逆を繰り返し、その度にソロモン朝に制圧された。最初に傀儡のスルタンとされたジャマールッ…

シオンの王と闇の預言者

ソロモンI世の死後、ソロモンI世の子どもたち*1が後継者を巡って、5年間に亘る骨肉の争い(1294-1299)を繰り広げた。1299年、その事態を収拾するため、ソロモンI世の弟、ウェダム・アラドが王位に付き、1314年に亡くなるまで国を治めた。1314年にはウェダム・…

「ソロモンの屈辱」とマルコポーロ

ソロモン朝とショアやイファトのスルタン国の友好関係は、長くは続かなかった。おそらくその最大の原因になったものは、交易路を巡る衝突である。元々キリスト教国側は、アクスム王国の時代、その首都がアクスムやクバールにあった頃から、北のダフラク諸島…

ソロモン朝の「復興」

「ソロモン朝復興の祖」となる、イクノ・アムラクには多くの伝説・伝承が付随しており、どこからどこまでが史実なのかがよく判らないのが現状だ。少なくとも、彼がアクスム王国の最後の王ディル・ナオドの血統に連なる者、すなわちエルサレムのソロモン王と…

ショア周辺の国々の興亡

#ここまでのおさらいをかねて。 ショア・スルタン国 13世紀以降にエチオピアの「中心地」となるショア台地は、11世紀頃まで「ショアの女王」率いる先住民の土地であった。しかし、1063年に「Mayaの娘、Badit女王」が亡くなった後、11世紀後半にはこの地で、…

はじまりの物語 (5)

#13世紀以降のエチオピア。ようやく佳境。 1063 ショア・スルタン国年代記の始まり(マヤの娘バディット女王の死) 11世紀後半 マクズム家がショア・スルタン国を興す 1108 ショア・スルタン国、ショアの東の部族をイスラム化 1128 ショアでキリスト教アムハ…

9-13世紀のコーヒーの可能性

キリが良いところまで続けようと思ったら、随分と長くなってしまったが、この時代までのコーヒーの可能性について考えてみたい。 この期間には大きな出来事が二つある。一つは、キリスト教徒イスラム教徒双方が、西南部を含めたエチオピア内陸部との接触を始…

イスラムの進出

時代を少し戻して、アクスム王国が内陸部を目指して南進を始めた9世紀頃、同じようにエチオピア内陸部を目指して動き始めたもう一つの勢力があった。イスラム教徒(ムスリム)である。アラビア大陸で活躍しはじめたイスラム教徒のアラブ人は、紅海沿岸部で盛…

「簒奪者の王朝」

ショアの女王の侵攻の後、アクスム王国の系譜に「とどめを刺した」のが、ザグウェ朝であることについては、おそらく異論は出ないだろうと思われる。1270年にソロモン朝が復興して以降、ザグウェ朝は「アクスムの正統な後継」を名乗る彼らによって、「不正に…

「ショアの女王」の国

後継争いの次にアクスムを襲ったのは、南方の先住民による襲撃 --反撃と呼ぶのがより正確だろう-- である。9世紀末から10世紀にかけて、アクスムはその領土をさらに南に拡大するべく、アムハラからさらに南方の、ショア地方に暮らす先住民の土地に侵攻した。…

二人の王子と二人の司祭

アクスム滅亡の最初のきっかけになったのは、後継者争いによる内紛である。『アレクサンドリア総主教の歴史』には、933-942年のコスマス総主教の時代、アビシニア(アクスム王国)の後継者を巡って生じた、二人の王子と二人の司祭にまつわる物語が記録されて…

アクスムの終焉

10世紀初め頃まで、新天地の開拓で繁栄するかに思われたアクスム王国だが、10世紀後半から12世紀半ばにかけて衰退し、滅亡したとされる。ただしこの、アクスム滅亡前後の約200年間の歴史は非常に曖昧で、滅亡した経緯や正確な年代も判らない。 大まかな流れ…

南下するアクスム

アクスムの南下がいつ頃どのように進んでいったかについて、具体的な史料は残っていない。しかし少なくとも9世紀後半までには、すでにある程度の南下が進んでいたようだ。 アクスム王国の最盛期に、その後背地はある程度属国化されていたものの、基本的には…

土俵際のアクスム

7-8世紀の、イスラム教の急激な台頭は、たちまちのうちにアラビア半島およびその周辺の一帯を飲み込んだ。預言者ムハンマドの死後、初代正統カリフ、すなわち「代理人」としてその遺志を継いだアブー=バクルがアラビア半島のアラブ人を統一する(〜634年)。…

はじまりの物語 (4)

#9-13世紀中頃(1270年ソロモン朝勃興まで)のエチオピア (7-8世紀頃:イスラムの台頭) 9世紀初め:アクスム王国の南下が始まる 9世紀:ゼイラから内陸部に向かってイスラム勢力が拡大しはじめる 9世紀後半:アクスムの南下が進み(クバールに遷都?)、シ…