ターヒル朝の成立

ムアヤドがアデンを占拠してほどなく、ターヒル家のアーミルが兄であるアリーを連れてアデンに到着した。ヒジュラ858年ラジャブ(7の月)23日(=西暦1454年7月19日)金曜日の未明、アーミルが少数の兵を連れてアデンの城壁を乗り越えてその中に侵入し、翌朝アリーが正門からアデンに入って、完全にターヒル家の支配下に置いた。


捕らえられたムアヤドは資産のすべてを没収されたが、その後アデンに住むことを許され、屋敷といくらかの財産、そして使用人たちをあてがわれて*1、そこで生涯を過ごしたという。

一方、マスウードはアデンを出た後、ザビードモカの中間あたりに位置するハルカー(Harqah)で、アブドゥッラー・イブン・アビールスルールという長老のもとに身を寄せていた。しかしザビードの奴隷の中に、彼に忠誠を誓う者たちがいることを知ってザビードに入り、そこで人手を集めた彼は再起を図り、ハルカーの長老を呼び寄せて、タイッズに向かおうとした。しかし途中のヘイズの町まで辿り着いたところで考え直し、野心を棄ててそのままマッカへと旅立った。マッカではマムルークのスルタン、イーナールに厚くもてなされ、そのままイエメンには戻らずに生涯を過ごした*2


こうして、最後まで後継者を名乗っていたラスール朝の王位請求者ムアヤドとマスウードが表舞台から退場し、ターヒル家だけが残った。アデンを制圧した1454年の時点をもってラスール朝が終わり、新たに「イエメンで初めて地元出身者が興したイスラム王朝」である「ターヒル朝」が成立したのである。

ザビードの制圧

1454年、ターヒル朝はアデンに続いて、ザビードを制圧した。


この頃のザビードは相変わらずの無政府状態であった。1451年にムアヤドを擁立した一派がいる一方で、ターヒル朝を支持するグループ、ほとんど暴徒と変わらない者たちのグループなどが混在していた。

ターヒル家がアデンに入ると同時に、ラスール朝時代のアデンの代官であったジャヤーシュ・スンブリーという長老がアデンから追放された。彼はザビードの奴隷グループの一つと交渉し、ザビードに迎え入れてもらうことに成功した。しかしジャヤーシュは実はターヒル家と事前に示し合わせており、ザビードの内部で親ターヒル派勢力を増やすことが、彼の真の目的だった。彼の説得によって、さらにいくつかのグループがターヒル家側に付き、ザビード内での大勢が決した頃、アデンからターヒル家の者がザビードにやってくるという噂が流れた。この噂を聞いて反ターヒル派の者たちの多くはザビードから逃げ出した。奴隷たちが擁立したムアヤドからも「ターヒル家に従いアデンに安住することにした」という知らせが届いた。そしてターヒル朝初代スルタン、アーミルの名で、ザビードに平和が戻ったことが宣言され、翌日、アーミルの兄アリーが儀式的なパレードとともに、ザビード入りを果たした。


こうしてターヒル朝は、元々支配下にあったタイッズに加え、アデン、ザビードの主要都市を制圧して、名実ともにイエメンを統治することになった。

アリーとアーミルの兄弟統治体制

成立直後のターヒル朝は、ターヒル家の兄弟*3のうち、アリーとアーミル*4の二人に牽引された。先に上の地位、ターヒル朝初代スルタンになったのは弟アーミルの方であるが、実質的には兄弟二人による共同統治体制で、この体制は1460年に兄アリーが2代スルタンになって以降も変わらなかった。


ターヒル朝ラスール朝が築き上げた体制を踏襲していったが、同時にラスール朝後期の負の遺産も受け継ぎ、成立当初から各地に紛争の火種を抱え込んでいた --
これが結局、ターヒル朝を短命にすることになるのだが。

弟アーミルの治世である1460年頃までは、ティハーマ地方の部族の反乱と、ハドラマウトのキンダ族からのアデンへの攻撃が大きな事件であった。前者には兄アリーが、後者には弟アーミルが赴いており、ここでも兄弟の役割分担が伺える。この二つの戦乱を乗り越えたものの、1460年以降、北イエメンザイド派との対決が激化し、さらにその後、ポルトガルマムルーク朝オスマン帝国による侵攻を経て、滅亡へ……と続いて行くのだが、この辺で一区切りにする。

*1:おそらく、自分の支持者であり、ターヒル家にとっても難敵であった、ザビードの奴隷たちを説得するための手紙を送った見返りだと思われる。

*2:東アフリカのキルワ王国に助けを求め、インドのカンベイに亡命したという説もある。 http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi3/page013.html

*3:Porterの学位論文の系図によれば、アリー、アブドゥル=マリク、ダウード、アーミル、ムハンマドの5人の名前が確認できる。

*4:この頃から、兄アリーは「ムジャーヒド al-Malik al-Mujahid Ali Ibn Tahir」、弟アーミルは「ザーフィル al-Malik al-Zafir Amir Ibn Tahir」と言う尊称でも呼ばれているが、本稿ではアリー、アーミルで統一する。