イファトの末裔

ソロモン朝に破れた後、イファト・スルタン国はワラシュマ家のスルタンが世襲する、ソロモン朝の一属国の立場に追いやられた。しかしたびたびソロモン朝に対して反逆を繰り返し、その度にソロモン朝に制圧された。最初に傀儡のスルタンとされたジャマールッディーンI世は、反逆を企てたために弟のナスラッディーンに挿げ替えられた。アムダ・セヨンの死後、父の後を継いで即位したソロモン朝ネワヤ・クレストスの時代には、アリ・イブン・サブラッディーン(Ali ibn Sabr ad-Din、サブラッディーンの子アリ)が反乱を起こすも敗れ、ネワヤ・クレストスの長子ネワヤ・マリャムの時代には、アリの孫に当たるハークアッディーンII世が蜂起するも敗れた。


その後、ネワヤ・マリャムの後を継いだ弟、ダウィトI世の時代、15世紀の初めに、ハークアッディーンII世の弟であるサーダッディーンII世が反乱を起こして敗れ、ゼイラまで敗走したところで追いつかれて殺された。このとき、サーダッディーンII世の10人の子どもは難を逃れ、紅海を渡ってイエメンに逃れたという。これが1410年、別の説では1403年とも1415年とも伝えられている。この戦いでイファト・スルタン国は名実ともに滅亡し、ソロモン朝はゼイラまで至る一帯を掌握した。


しかし「ゼイラまで至る一帯を掌握した」とは言ったものの、転々と移動を続ける「首都を持たない王朝」ソロモン朝にとって、特定の地域を統治しつづけることは苦手とすることであった。特にゼイラを介する紅海地方との交易は、元々イスラム教徒であるアラブ商人の独擅場であり、そこにキリスト教徒らが入り込んだところで上手い商売ができるはずもなかった。このため、ゼイラはすぐにイスラム商人らの自治に任せられるようになった。そのどさくさに紛れて、イエメンに渡っていたサーダッディーンII世の息子ら、ワラシュマ家の一族は、1415年には再びエチオピアの地に舞い戻り、新たにアダルを首都として、アダル・スルタン国を興した。


その後、アダル・スルタン国は周辺のイスラム諸国とともにソロモン朝に抗しつづけ、ダウィトI世の息子テオドロスI世を始め、エチオピア皇帝も次々に戦いの中で命を落とした。しかし、ソロモン朝ザラ・ヤコブの時代、ヨーロッパからの火器を手に入れた*1ソロモン朝がアダル・イスラム同盟を完全に撃ち破り、1445年にアダル・スルタン国を属国化した。ザラ・ヤコブはさらにエリトリアを制圧し、ラスと呼ばれる諸侯を各地に配置する封建制度を確立して、エチオピア帝国は一時の安定を得る -- その後、16世紀のアダル・スルタン国の逆襲(グラン戦争)、その後のオロモ族の侵略へと続くわけだが、それについては「エチオピアの歴史」などを参照してもらうとして、エチオピアの歴史についての話はここで一区切りにしておきたい。

*1:それまではエジプトが、エチオピアが火器を入手しないように阻止していた。