エチオピア奴隷の王朝

上述したことをまとめると、ズィヤード朝の時代、下イエメン*1周辺には、

  • アッバース朝から来たズィヤード朝
  • 下イエメンの先住部族(アック族、アシャーイル族、クライシュ族、マズヒジュ族など)
  • 上イエメンのラシード朝

という3つの勢力が存在した。しかしもう一つの一大勢力があった。それは

である。


9世紀の初頭から、ズィヤード朝はザビードの街を建設していったが、そのためには多くの人手が必要となった。そのため、9-10世紀にかけてエチオピア内陸部で捕らえられたエチオピア人奴隷が数多く、ザビードの人々に買われたのである。その多くはズィヤード朝のスルタンや役人たちの奴隷として働き、一部のものは自由人としての身分を獲得することに成功して、ザビードで暮らすようになった。またズィヤード朝の男たちがエチオピア奴隷の女に子どもを生ませ、ティハマ地方には、エチオピア人の血を引く肌の黒い者たちがどんどんと増えていった。後に12世紀にこの地を訪れたウラーマーが、当時、ティハマ地方では「すべての人の肌は黒い」と記録するほどである。エチオピア人の血をひく彼らもまた、自分たちのルーツをエチオピアにあると考え、奴隷たちの勢力に合流する者が多かった。そうして、彼ら奴隷たちは数で勝る「被支配者層」として、少数の「支配者層」であるズィヤード朝の人々と対立する勢力になっていった。


1018年、ズィヤード朝は、7代目のスルタンであるイブラヒム(在位1012-1018)が家臣により殺されて終焉を迎える。これによって混乱したザビードを収めたのは、奴隷たちだった。1021年、ズィヤード朝に仕えていたエチオピア人奴隷の一人、ムアヤド・ナジャーフが奴隷たちをまとめ、彼らの王朝であるナジャーフ朝を成立させたのである。ナジャーフ朝は、ズィヤード朝が残した制度を踏襲して、ザビードとその周辺のティハマ地方を統治しようとした。彼らの王朝は、結果的に約140年間に亘って(1159年まで)存続した。


しかしアッバース朝という後ろ盾を持たないナジャーフ朝は求心力に劣り、この時期にイエメンでは小さな王朝がいくつも勃興していった。

1037年にナジャーフが死ぬと、上イエメン地域のマンスールという、サヌアの西にあった地区でスライフ族が蜂起し、シーア派王朝であるスライフ朝を興した。スライフ朝はサヌアを都として*2、一時期はマッカやアデンまでをその勢力下に置いた。スライフ朝は1037年から1080年までの間、ナジャーフ朝をその支配下に置いて、ザビードをその自治領としていたが、1080年にナジャーフ朝が再び蜂起して独立を果たし、その後は互いにザビードを取ったり取られたりの攻防が繰り返された。


アデンでは1083年にズライ朝が成立した。アデンの有力者であったカラムの二人の息子(アッバースとマスウド)が共同統治する体制で、スライフ朝の承認を受けて成立した。アデンはその後1135年に、ペルシア湾に浮かぶキーシュ島(Kish island)の王に襲撃を受けて一時的に占領されたが、アデンに居留していた商人らも協力して撃退することに成功したようだ*3


スライフ朝とナジャーフ朝は1080年以降、ザビードを巡って争いを繰り返していたが、1098年、上イエメンのハムダン族がハマダーン朝を興してサヌアとサーダを制圧し、1101年にスライフ朝は滅びた。また一方ナジャーフ朝も、1159年にザビードでマフディー朝が興り、滅ぼされた。

こうして、アデンのズライ朝、上イエメンのハマダーン朝、ザビードのマフディー朝という情勢になったものの、長くは続かなかった。1169年、ファーティマ朝の最高司令官となったサラーフッディーンによってアイユーブ朝が建国され、1173年にはアイユーブ朝がイエメンに侵攻した。ズライ、ハマダーン、マフディーの三朝はほぼ同時期に攻め落とされて、イエメン全域はアイユーブ朝支配下に置かれた。アイユーブ朝の始祖であるサラーフッディーンの兄、トゥーラン・シャーがイエメン・アイユーブ朝のスルタンとなり、その後1229年までアイユーブ朝による統治が続いた。

参考

*1:ティハマ地方からアデンにかけての沿岸部とタイッズなど南イエメンを含む一帯

*2:後にイッブ近郊のジーブラに遷都した

*3:海上交易の世界と歴史』 2・2・2 インド洋の交易都市とイスラーム交易民 http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi2/page002.html