アーミルI世の治世(1454-60)

ターヒル朝成立直後のアーミルI世の治世で、主な紛争の一つは、ティハーマ地方の反抗的な部族であったマアジバー族と、クライシュ族による反乱である。彼らとターヒル家の関係は非常に複雑だが*1、マアジバー族は当初からターヒル朝に反抗的であった。クライシュ族は最初はターヒル家と仲が良く、一緒にマアジバー族に攻撃したりしていたものの、間もなく反抗的な態度を示すようになっていた。彼らは、1456年頃からたびたび反乱を起こしたが、そのたびに隣接するザビードにいたアリーに鎮圧された。鎮圧のたびに、部族の者の何人かが殺され、馬や金が奪われて、彼らの財源であったナツメヤシの木が、しばしば懲らしめのために切り倒された。これによって彼らの財産は失われ、勢いを失った両部族は1460年頃には鎮静化していった。


この時代のもう一つの大きな紛争は、ハドラマウトからアデンへの侵攻である。ハドラマウトラスール朝の2代スルタン、ムザッファルの時代に征服されていたが、イスラム以前からこの地域に暮らしていたキンダ族の族長、アブー・ドゥジャナーが1435年に反乱を起こし、主要な港町であったシフルを占拠していた。

ターヒル朝成立の翌1455年、彼はさらにアデンにも食指を伸ばそうとした。アデン周辺の山岳部族であるヤーフィー族の族長の一人、ムバーラク・タービティーに共謀を持ちかけ、数隻の船とともにアデン沖に停泊し、ターヒル朝のスルタン、アーミルI世が不在の隙をついて攻撃をしかけた。

しかしアデンの代官、イブン・スフヤーンが街壁の守りを固め、素早くアーミルI世に使いを送って呼び寄せた。さらに荒天によってアブー・ドゥジャナーらの船は遭難し、アデンに近い海岸に打ち上げられて、彼らはアーミルI世によって捕えられた。

アブー・ドゥジャナーはアデンに出征する前に、自分の母、ビント・マアシルにシフルのことを任せていた。彼女は、彼が捕まったという知らせを聞くと自らアデンに赴き、降伏するのと引き換えに息子の命を嘆願した -- ただし結局、彼はシフルに戻る途中で死んでしまい、生きて故郷に戻ることはなかったのだが*2。こうしてハドラマウトは鎮圧され、1459年には再びターヒル朝の代官が派遣されて、その支配下になった。


これ以外にもターヒル朝の紛争は絶えることなく、1457-9年にはザイド派との衝突や、イッブ地方のズー・ジーブラーにいたフバイシー族の反乱が起きている。

*1:ラスール朝末期のザビードで「偽スルタン」アフダルが王位請求者の名乗りを上げた時、マアジバー族とクライシュ族は、彼から資金や武器を贈られて勢力を付けていた。その後、マアジバー族とクライシュ族は仲違いし、クライシュ族が有利に立った。さらにその後、別のラスール家王位請求者のマスウードが、マアジバー族の力を借りてクライシュ族を鎮圧していた。そしてマスウードらラスール朝の王位請求者たちと戦ったターヒル家のアリーが、1454年にザビードに入るときにはクライシュ族がターヒル家の側についていた。

*2:一説には毒殺されたとも伝えられている