独立イスラム王朝の成立

817年、ティハマ地方でアック族('Akk)とアシャーイル族(Asha'ir)という二大部族の反乱が起きた。この知らせを受けたアッバース朝のカリフ、マアムーンは、イブン・ズィヤード*1を将軍(アミール)に任命して派遣した。反乱が鎮圧された後、マアムーンは両部族の領土のちょうど中間にあたる場所に街を築き、そこを軍事拠点として両部族を牽制するように彼に命じた。この都市が後に学術都市として大繁栄を遂げるザビードである。

819年、マアムーンは毎年朝貢を受けることを条件に、イブン・ズィヤードをその領主としてティハマ地方が独立することを承認した*2。こうして生まれたのがズィヤード朝である。ズィヤード朝は、アッバース朝支配下にあるスンナ派の王朝*3として、ザビードを首都としてティハマ地方を統治した。その勢力はティハマ地方だけでなく、ハドラマウト地方や、上イエメン(イエメン北部の山岳地帯)の一部にまで及んだという。


一方、9世紀末頃から上イエメン地域ではシーア派の勢力が拡大しはじめていた。元々、上イエメンは、いくつもの小さな山岳部族が分かれて暮らしていた地域であり、彼らは概ね内向的で表舞台にあらわれることは少なかった。しかし893年、ムハンマド直系子孫の一人*4ヤヒャ・イブン・カシム・アッ・ラッシ(ヤヒャ、Yahya bin al-Husayn bin al-Qasim ar-Rassi)が、マディーナから上イエメンの一部族に招かれた。彼の祖父であるカシム・アッ・ラッシはザイド派を体系化した偉大な法哲学者であり、ヤヒャもまた優れた学者として上イエメン一帯にザイド派を広めた。そして897年、ヤヒャをイマーム(最高指導者*5)とするザイド派の王朝、ラシード朝が成立した。彼の子孫(ラシード家/カシミド家)はその後、20世紀に至るまでイマームとして(1962年にイエメン王国がなくなるまで)上イエメンの宗教指導者として君臨しつづけた。そして、ティハマ地方や南イエメンなどに成立するスンナ派勢力と、対立を繰り返すことになる。


909年、シーア派の一分派であるイスマーイール派北アフリカにあったスンナ派アグラブ朝(現在のチュニジア)を滅ぼし、イスマーイール派の指導者であるウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー)がファーティマ朝を勃興して、アッバース朝に対抗して「カリフ」を名乗った。やがて969年、ファーティマ朝はエジプトのイフシード朝を滅ぼしてエジプトを支配し、10世紀後半の最盛期にはエルサレムを含むシリア南部や、マッカやマディーナを含むヒジャース地方(アラビア半島の紅海沿岸北側)がファーティマ朝支配下となった。


ファーティマ朝の成立は、それまでアッバース朝という一つの大国のもとで繋がっていた地中海地域とインド洋地域を再び分断することになった。アッバース朝時代には、その中心地を経由するペルシア湾が、インド洋と地中海を結ぶ主要な交易路となり、紅海交易は下火になっていたが、ファーティマ朝の時代になると、敵対するアッバース朝の支配地を避けて、紅海からインド洋へと抜ける交易路が、再び重要なものになっていった。このことが10世紀頃の紅海交易の発展、特にイスラム商人たちの急成長につながり、エチオピアではこれがキリスト教王国の内陸部への進出の要因になったことは、以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130205#1360059611)述べた。

ファーティマ朝は、その勢力範囲の拡大に伴って、周辺のスンナ派勢力に対してやや融和的な方針を採るようになった。南イエメンのズィヤード朝に大規模な侵攻を行わなかったのもそのためであろう。しかしその一方でファーティマ朝は、同じシーア派である上イエメンのラシード朝を支援しており、彼らを介して間接的に影響を与えていたと考えてよさそうだ。

参考

*1:ムハンマド・イブン・アブドゥラー・イブン・ズィヤード

*2:この地方は、アック族やアシャーイル族以外にも、先述のマズヒジュ族やマッカのクライシュ族など多くの部族が存在し彼らを監視する必要があったことに加えて、この当時、イスマーイール派Qarmatiansなどシーア派の勢力が増しつつあったこともあり、軍事拠点としての強化が必要だったためと思われる。

*3:アッバース朝は元々、イスラム世界で多数派を占めるスンナ派ウマイヤ朝に対して、少数派のシーア派が起こした、西暦750年のいわゆる「アッバース革命」で生まれたシーア派の王朝であったが、革命後は多数派であるスンナ派との融和政策を採っていった。後にこれに対して異を唱え、独自のカリフを擁立して独立したのがエジプトのファーティマ朝で、シーア派イスマーイール派王朝であり、より強硬路線を採った。

*4:ムハンマドの娘ファティーマとムハンマドの従兄弟アリーの長子であるハサン・イブン・アリーの子孫。シーア派においてハサンは第2代イマームかつ殉教者として、非常に肯定的に評価される。

*5:イマームの称号はスンナ派シーア派の両方に見られるが、特にシーア派におけるイマームは最高指導者として、その時代の最重要人物になる。基本的には、ムハンマド直系の子孫がイマームとなり、誰がイマームとして相応しいかを巡ってシーア派は途中で分派した。多数派を占める十二イマーム派、7代目イマームの継承時にイスマーイールを支持したイスマーイール派、5代目イマームの継承時にザイドを支持したザイド派などがある(ウィキペディアシーア派も参照)。 十二イマーム派イスマーイール派では、途中でイマームの血統が途絶えたが、これを「ガイバ」と呼び、イマームは人々の前から隠れた状態にあり、やがて救世主(マフディー)として現れるという一種の終末思想的な概念に繋がっている(ただしザイド派はガイバ説を支持していない)。イマームが隠れている間、ウラマーイスラム法学者)がその代理として人々を導くという位置づけになる。