アーミルI世とアリーの時代(1454-1478)

初代スルタン、アーミルI世と二代スルタン、アリーの時代は、実質的にはターヒル家の五人兄弟の中で、傑出していた四男(アーミルI世)と、長男(アリー)による合同統治体制であった。この体制はアリーがスルタンに即位した1460年以降も続き、1465年にアーミルI世がザイド派との戦いで命を落とすまで続いた。


ラスール朝の王位請求者たちとの戦いにおいて、ターヒル家は、元々ラスール朝の首都であったタイッズを拠点として戦い、1454年にアデンとザビードの、二つの主要都市を制圧したことで、下イエメン地域一帯を支配するに至った。ターヒル朝の成立後は、アーミルI世が初代スルタンになり、ラスール朝時代から続いてタイッズの要塞を首都として拠点にし、本人は各地の戦線を転々としていた。アデンは、ターヒル家にとって最も忠実で信頼できる家臣、イブン・スフヤーン*1が代官になって治め、ザビードは、1454年にアリーが入城して以降、彼が統治をつづけていたようだ。


アーミルI世とアリーの時代は、国内の反抗的な諸部族による反乱と、ハドラマウトザイド派などの国外勢力との紛争が続いた時代である。これらの戦いにおいて、二人のスルタンには役割分担が出来上がっており、国内の反乱鎮圧にはアリーが、国外勢力の侵攻に対してはアーミルI世が、それぞれ主に対応していた。元々ラスール朝との戦いでも活躍したのはアーミルI世の方であり、おそらく彼は戦に長けた、一族きっての武闘派だったようだ。これに対してアリーは、多数の奴隷たちなどの派閥が入り乱れるザビードを取り仕切り、隣接するティハーマ地方の反抗的な諸部族を、時には武力で鎮圧し、時には交渉で丸め込むなど、内政に長けた人物だったようだ。ターヒル朝の歴史をまとめたPorterの言葉を借りれば*2、彼らの治世を振り返ると、アーミルI世は対外侵略ばかり、アリーは内政ばかりに力を入れ過ぎで、どちらもバランスに欠けていたとの評である。

*1:アリー・イブン・スフヤーン

*2:Porter, Venetia (1992) The history and monuments of the Tahirid dynasty of the Yemen 858-923/1454-1517., Durham theses, Durham University. Available at Durham E-Theses Online: http://etheses.dur.ac.uk/1558/ , p.72