シオンの王と闇の預言者

ソロモンI世の死後、ソロモンI世の子どもたち*1が後継者を巡って、5年間に亘る骨肉の争い(1294-1299)を繰り広げた。1299年、その事態を収拾するため、ソロモンI世の弟、ウェダム・アラドが王位に付き、1314年に亡くなるまで国を治めた。1314年にはウェダム・アラドの子、アムダ・セヨン(アムダ・セヨンI世、アムデ・ジョン)が父の後を継いで即位した。実名の「アムダ・セヨン Amda Seyon」とは、「シオンの柱 Pillar of Zion」を意味し、イスラエルにあったシオン(ザイオン)の中心的な存在という、ソロモン王の血統を意図した名前である*2


アムダ・セヨンは非常に立派な王であり、また同時に異教徒に対しては何の容赦もしない、勇猛果敢かつ冷酷無比な、恐るべき王であった。

彼はまずダモトに対して大規模な侵攻を行った。ハイク湖の修道院に残された記録によれば、1316年から1317年にかけての出来事である。当時のダモトには異教徒の先住民が暮らしていたが、一説にはイスラム教徒らの国があったとも言われている。「国」と呼べるものがあったかどうかは定かではないが、おそらくはアラブ商人によるイスラム共同体があったことは確かだろう。アムダ・セヨンはこのとき「神は私の手にダモトの全ての人々を与えられた:その王、その王子、その族長と民、無数の男と女たちを」と言う言葉を残したと伝えられ、ダモトの人々のほとんどはこのときアムダ・セヨンに捕らえられて奴隷となるか、他の地へと逃げ延び、ダモトからいなくなった。アムダ・セヨンの奴隷となったダモトの男たちの多くは彼の兵士となり、以降の侵攻の戦力になったという。


ダモトの次にアムダ・セヨンが目をつけたのは、ショアの南に位置するハドヤの町である。ハドヤはそれほど大きくないが、奴隷の売買で非常に繁栄していた町である。西南部で捕らえられた先住民を中心に、ここで多数の奴隷がアラブ商人に売られ、そこからゼイラを経てイスラム世界全域に輸出されていた。ハドヤの支配者は先住民の王「アメロ King Amäro」*3と呼ばれ、ここにもダモトと同様、イスラム共同体があったようだ。アムダ・セヨンはハドヤの王アメロに対し、ソロモン朝に臣従して貢ぎ物を出すように要求し、アメロも最初これに応じようとした。しかし、ベルアム(Bäl'am)という「闇の預言者 prophet of darkness」が、アメロに思いとどまるよう助言した。「シオンの王(=アムダ・セヨン)の下に行ってはならない。彼に貢ぎ物をしてはならない。もし彼が攻めて来ても恐れることはない。彼はあなた(アメロ)の手に落ち、彼の軍は消え去るであろう」

ハドヤの王はこの助言を受け入れ、アムダ・セヨンの要求をはねつけた。これを聞いたアムダ・セヨンは激怒し、ハドヤに攻め入った。ハドヤはたちまち敗北し、老若男女を問わず多くの民が殺され、生き残った者は捕らえられてソロモン朝の奴隷となった。偽の預言者ベルアムはハドヤから落ち延びて、イファトの町に逃げ仰せたという。


ハドヤでの虐殺後の1320年頃、エジプトでマムルーク朝コプト教徒らを弾圧し、教会を破壊するという事件があった。このことを聞きつけたアムダ・セヨンは、マムルーク朝に対して抗議の使節を送ってこう伝えたという。「弾圧をやめなければ我らが領土のモスクを破壊し、(タナ湖からの流れをせき止めて)ナイルの流れる先を変えてやる」 マムルーク朝がこの脅しに屈することはなかったが、「エチオピア人がナイルの流れを止める」というのはこれ以降、数世紀にわたってエジプト人の畏怖を呼ぶ言葉となったそうだ。

アムダ・セヨンの伝記によれば、このマムルーク朝とソロモン朝の対立の後、イファトのスルタン、ハークアッディーン (Haqq ad-Din I)がアムダ・セヨンの召使いの一人を捕らえて虜囚とした。これをきっかけとして、イファト・スルタン国への侵攻が行われた。召使いが捕らえられた報復として、アムダ・セヨンは自ら馬に乗り、たった七騎の騎兵とともにイファトの城塞に侵入して*4、ハークアッディーンの兵士を大勢殺し、イファトの町を破壊しつくし、多くの財宝を略取したと言う。その後アムダ・セヨンは軍を派遣し、イファト・スルタン国の全域を制圧していった。1328年にはハークアッディーンを破り、1332年にはその弟で後継者であるサブラッディーンI世を捕らえて、イファトを完全に制圧した。そしてサブラッディーンの弟、ジャマールッディーンI世を傀儡のスルタンとして、イファトをソロモン朝の属国としたのである。


その後、アムダ・セヨンはダモトの兵を引き連れて、エチオピア北部のティグレやセミアン(ゴンドール)の制圧に向かい、続いてイファトやアダルでの反乱を制圧する…といった具合に、その生涯を通じてエチオピア各地への軍事遠征に明け暮れた。ソロモン朝は俗に「首都を持たない王朝」と呼ばれることがあるが*5、アムダ・セヨンの治世はまさにその典型で、王自らが率いる軍隊がエチオピアの各地に移動しては戦闘を繰り返すという、まるでモグラ叩きのような統治の形態であった。

*1:ソロモンI世とウェダム・アラドの間には5人の王の名前が記録されているが、いずれも在位1年程度である。彼らはソロモンI世の子どもだったと伝えられるが、全員が本当にそうであったのかについては、記録によって意見が分かれている

*2:即位後、彼は「Gebre Mesqel」という二つ名を名乗った。これは「十字架の奴隷 the slave of cross」を意味する。またザグウェ朝のラリベラ王が名乗った「Gebre Mesqul Lalibela」とも重なっている。

*3:"Amäro"は個人の名前ではなく、王族を意味する称号である。

*4:このエピソードはアムダ・セヨンの伝記者によるものなので、かなり誇張がありそうだが。

*5:実際には、アムダ・セヨンの父王ウェデム・アラドの時代に、アクスムを再び首都に位置づけていたようだ。