この時代のコーヒーの可能性

イブン・スィーナー『医学典範』再考

以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130205#1360059618)9-13世紀のエチオピアの項で述べたように、10,11世紀のペルシアにおいて、アル・ラーズィーとイブン・スィーナーという二人のイスラム医学者が、その医学書の中で、ブン(Bunn)やブンカム(Bunchum)の薬用に言及している。


特に現存するイブン・スィーナーの『医学典範』においては、ブンカムが「イエメンからもたらされる」という記述が見られることは重要だろう。この「ブンカム」が果たして本当にコーヒー豆を指すかどうかでは定かではないが、もし本当であれば、イブン・スィーナーが活躍した11世紀に、イエメンにコーヒー豆があったことを示唆するからだ。


イブン・スィーナー(アビセンナ)は、980年、サーマーン朝の首都ブハラの近郊で生まれた。その父はサーマーン朝の高官として仕えるイスマーイール派の偉大な学者であり、慎重に彼に教育を施した。彼は並外れた知性と記憶力の持ち主で、10歳のときにはクアラーン(コーラン)を完全に暗誦し、14歳のときには先生を超え、18歳のときにはもう既に学ぶものは残っていなかったという。彼は、数学や医学などにも才能を発揮した。16歳のときに医学に目覚め、18歳のときには医者として大成していたという。彼が17歳のときに最初に診た患者はサーマーン朝の君主であり、彼を難病から救った功績から、サーマーン朝王宮の図書館*1に自由に出入りすることを許された。


しかし彼が22歳のときに最大の理解者である父が亡くなり、また1004年にサーマーン朝が滅びたことで彼はパトロンを失った。サーマーン朝を滅ぼしたガズナ朝のスルタン、マフムードの誘いを拒絶し、彼はカスピ海東側(トルクメニスタンウズベキスタン、イラン東部のホラーサーン州)の地方で、学識ある知己を訪ねながら、流浪の生活を送った。『医学典範 The Canon of Medicine』の執筆は、この流浪時代の1010年頃に開始された。

その後、彼はテヘラン近郊の町、レイ(Rai)に定住する。ここはアル・ラーズィーの生まれ故郷であり、晩年を迎えた地でもあった。ここで彼はブワイフ朝に厚遇された。『医学典範』を書き上げたのはこの時代で、1020年のことだったと言われる*2


『医学典範』までのイブン・スィーナーの足跡から考えると、彼が直接イエメンに足を踏み入れたとは考えにくい。彼の医学の知識は、サーマーン朝時代にブハラの王宮で培ったものか、流浪時代の見聞や学識者との交流で培ったものか、あるいはひょっとしたら、レイに定住したときにアル・ラーズィーの残した『医学集成』に接していた可能性と、いろいろな要素が考えられる。彼が実際に「ブンカム」の実物を目にしていたのか、または単に書物から知識を得ていただけなのかは、今となってはわからない。ただし以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130205#1360059618)示したように、『医学典範』の「ブンカム」の項に、良品と粗悪品の見分け方についての記載が見られることから、この時代にイブン・スィーナーが「ブンカムの実物」を直接目にしていた可能性を、安易に否定することはできなさそうだ。


彼が『医学典範』を執筆したのが1010-1020年頃である。一方、イエメンのザビードエチオピア人奴隷たちがナジャーフ朝を興したのが1021年で、この時に既に一つの王朝を興すだけの力があったのだから、少なくともその少し前から、エチオピア人奴隷たちの力は十分に強まっていたと考えていいだろう。エチオピアキリスト教徒らやイスラム教徒らが内陸部に侵出し、奴隷を輸出するようになったのが9世紀頃、ザビードの建設が始まったのが10世紀初頭なので、10世紀末には、当時直接エチオピアから連れてこられて奴隷の身分にあった者たちだけでなく、その子孫たち -- 特にエチオピアの女奴隷とその主人たちとの間に生まれた者 --や、奴隷から自由民の地位を獲得した者とその子孫たちが、当時のザビードに居住していたと考えられる。


彼らエチオピア起源の人々が、ある種のラスタファリアニズム的な運動を起こしていたかどうかについては定かではない。しかし苦境の中で、故郷であるエチオピア西南部の文化や風習への回帰を望んだとしても、不思議はないだろう。当時もし本当に、イエメンに「ブンクム=コーヒー豆」があったとしたら、それはそういった流れにあったのかもしれない。

ラスール朝時代アデンでの交易記録

ラスール朝時代のアデンにおいては、交易船の入港が厳しく管理されており、輸入品に対して通常の関税とシャワーニー税が課されていた。栗山保之『海と共にある歴史 イエメン海上交流史の研究』によれば、当時の税務記録の資料がいくつか残っており、そこから当時のアデンでの交易取扱物品が伺える。


13世紀末の税務文書を編纂した『知識の光*3』と呼ばれる資料によれば、当時のアデン税関で扱われた取引品目は413点に及んでいる。この中にはアデン近郊だけでなく、西は地中海北岸から、東はインド、東南アジア、そして東アジア*4に至るまでの広大な地域で産出されたものが並んでいる。このうち、エチオピアからの交易品としては、男女それぞれの奴隷などが挙げられているが、残念ながらコーヒーに関連すると断言できそうな物は見られないようだ……いくつか、名前が似ていそうなものはあるのだが。

例えば、奴隷以外のエチオピアからの交易品としては、

が挙げられている。

「qatir」などは何となく、ハラー地区で飲まれているコーヒー葉茶(カティ/クティ)の音を連想しないでもないが…他に「龍血樹樹脂 qatir munqa」という項目があることと、イエメンにおいてはギシルとブンの利用はあっても、カティが利用されていたという記録はないので難しそうだ。

また「qust」(コスタス)も、なんとなくそれっぽくなくもないが…これは Costus arabicusというショウガ科の植物の一種で、香辛料として使われるものらしい。またリストには、エチオピア産コスタス以外にインド産コスタスと、産地の記載のないコスタスが書かれており、この時代にコーヒーがエチオピア以外の地域で生産/採取されていたとは考えにくいので、別物だと考えて良いだろう。

またいくつかの品目に"qishir"、"gishir"という文字が見られるのは興味深い。

  • 桜桃果樹皮 (qishir al-mahlab)
  • 乳香樹皮 (qishir al-luban)
  • 皮付き桜桃樹果 (mahlab bi-gishir-hu)

ここからもqishirやgishirが、植物の皮を表す言葉であることがわかる。後にイエメンで飲まれることになるコーヒーの殻(乾燥後の実とパーチメント)を使う飲料、キシル(kishir/qishir)ないしギシル (qishir) という名称がそこから来たことが伺える…"bunn"が、元々は「豆」を意味する言葉だったのと同様に。

ただ、同じ殻の部分を使う飲み物でも、エチオピアのハラー(ハラーリ語)に見られる"hašar qahwa"とは若干呼び名が異なる点は気になるところだ。


この資料から、少なくとも13世紀末に、コーヒーがアデンに輸入される交易品ではなかったということは言えるだろう。

ただし、ここにリストアップされたものは、あくまで税関での取扱い品目であることには留意すべきであろう…ごく少量が持ち込まれるようなものについては対象外であった可能性は除外できない。

逆に、この時点でイエメンで栽培されてアデンから輸出されていた(から輸入品リストに入らない)可能性も考えられなくはないが…少なくとも1330年頃のイブン・バットゥータの記録を考えると、その可能性はかなり低そうだ。イブン・バットゥータザビードからウダイン(タイッズ)、ジーブラ(イッブ近郊)を経て、最終的にはアデンからエチオピアに向けて出港している。好奇心旺盛で目端の利くイブン・バットゥータのことだから、もし当時のイエメンでコーヒーが栽培され、ましてや輸出されていたのならば、彼がそのことを書き記さなかったとは考えにくいだろう。


アデンでの交易品に関する資料は、この他にもいくつかあるそうだ。例えばラスール朝が終期に差し掛かる15世紀初頭の取扱品目、180点を記載したアラビア語文献(『アデン港の書記官提要』)もあるそうなのだが……残念ながら内容が確認できていないので、今後の課題にしたい。

参考

コーヒーはなぜ消えた?

さて、ここまでの考察が正しいとするなら、イエメンにおいては11世紀初めに、薬用の「ブンカム」が存在していたが、13世紀末から14世紀前半には姿を消していたということになる。このことは、アブドゥ・ル=カーディルの記録に見られるゲマルディン(ザブハニ)のエピソードからも裏付けられるだろう。

15世紀に彼が初めてアデンでコーヒーを公認した際のエピソードで「彼が別の土地を旅していたとき、その地の者から薬として使う知識を得、アデンで体調を崩したときに思い出して使ってみた」というものだ。アブドゥ・ル=カーディルの文献については、後日改めて考察することにするが、このことは15世紀頃のアデン、あるいはイエメンでは、コーヒーを薬用として用いるという知識が一般に普及していなかったことを示唆している。


では、もしそうだとすれば、コーヒーはなぜ消えたのか?

可能性の一つは、当初イエメンでは結局、薬用以外の使用が展開しなかったことであろう。エチオピア西南部の部族においては、現在もコーヒーは薬用、食用としてだけでなく、移住や誕生、婚姻、埋葬などさまざまな生活儀礼に用いられており、彼らの生活と非常に密接に結びついている*5。しかしイエメンでエチオピア人奴隷たちが、こういった生活儀礼を執り行える状況にあったとは考えにくい。奴隷としての生活上の制約があっただけでなく、そもそも住んでいる環境自体が大きく異なるのだ。一度は故郷のエチオピアからわざわざ取り寄せたコーヒーであったとしても、結局はそうした生活の違いから儀式的に用いることは長続きしなかった可能性は考えられる。


また、薬として使用するにしても、エチオピア西南部の先住民社会よりも、医学がはるかに発展していたイスラム世界においては、コーヒー豆よりももっとはっきりとした効き目が出る薬があっただろうことは想像に難くない。イブン・スィーナーの『医学典範』における「ブンカム」の記述量は、他の薬剤に比べてもかなり少ない方であり、薬としての重要性が決して高くなかったことが伺える。おそらくは、時代が下るほどにその入手も困難となり、それがまた薬として用いる機会を減らしていったことで、最終的には薬としての利用も忘れられて行ったのではないだろうか。


もう一つの大きな可能性は、イエメンにおいてコーヒー豆の利用が「エチオピア由来の風習」であったことである。ナジャーフ朝の滅亡以降、アイユーブ朝ラスール朝など、下イエメン地域を統治した王朝は、いずれもイエメン以外の地域からやってきた支配者であった。彼らは、自分たちが支配者層であることの正統性を主張するため、イスラム神学、法学、科学、医学などのあらゆる学術分野で、自分たちが秀でた存在であることをアピールする必要があった -- それがザビード学術都市として発展した大きな理由でもある。このような背景を考えると、少なくともラスール朝の初期に、自分たちの奴隷であるエチオピア人たちの風習や文化を受け入れたとは、やはり考えにくい。


またこのことは、消失後に「復活」した「コーヒー飲用」がスーフィズムと結びついて発展したこととも関係するだろう。スーフィズムでは、しばしばスーフィー(修行者)が、聖職者でもあるウラマー(学者)たちを権威主義と批判し、対立姿勢を示すことが見られる。ラスール朝は、ザビードに多くのマドラサ(学校)を建て、学問を奨励して多くのウラマーを育てたが、彼らの多くは言わば「支配する側」に立つ人々であった。彼らに対して元々批判的な立場にあったスーフィーたちだからこそ、彼らが奴隷たちのものとして顧みなかった「エチオピア由来の風習」にも目を向ける余地があったのかもしれない。


後世、他のイスラム社会やヨーロッパなどの各地でコーヒー飲用が始まったときと同様、ザビードウラマーたちの間でも、コーヒーの飲用の是非を巡る論争があっただろうことは想像に難くない。しかしそれを初めて「合法」と認めたのは、ザビードウラマーたちではなく、なぜか学問や宗教とは疎遠だったはずのアデンの、しかもスーフィー出身だった学者、ゲマルディン(ザブハニ)だったのである。

参考

*1:この図書館は後にイブン・スィーナーを疎む者に火をつけられて焼失したと言われる。

*2:別の説によれば、その後レイでの政争に巻き込まれてイスファハーンに移住した後の、1025年頃に完成したとも言われる。

*3:『壮麗なるムザッファルの時代におけるイエメンの統治と法律そして諸慣習に関する知識の光』

*4:泉州から積出された陶磁器の記録も見られる

*5:福井勝義「コーヒーの文化的特性」 『茶の文化・第二部』淡交社(1981)