2013-01-01から1年間の記事一覧

「はじまり」から「ひろがり」へ

いずれにせよ、確かなことは一つある。アブドゥル=カーディルが記した、16世紀当時のコーヒーとは「キシルのカフワ」「ブンのカフワ」という、スーフィズムとの繋がりの深い宗教的な飲み物という意味合いがやはり強かった。しかし、それが 嗜好飲料として、…

カフワ≠コーヒー

アブドゥル=カーディルは、彼の過ごした時代と地域で飲まれていた「カフワ」のルーツを突き止めた。しかし、現代を生きる我々は、彼の分析結果を以て、果たして「現代の我々が飲んでいるコーヒー(6)」のルーツを突き止めた、と言えるのだろうか?……これは大…

考察

「コーヒーやカフワのはじまり」を考えるには、必ず「それがどういうかたちでの利用だったか」ということをあわせて考える必要がある。 コーヒーの実や種などを生活儀礼で使用 コーヒーの種の薬用 コーヒーの実や種(キシル、ブン)の食用(食料や嗜好品とし…

この一年での主な進捗

15世紀頃までのエチオピア史とイエメン史を総括した 過去の文献のいくつかを、特にGoogle Bookからの参照で内容確認できた エチオピア西南部からのコーヒーの伝播が、エチオピアでの人の動きに連動している可能性を示した Ukers "All about coffee"の、シェ…

年表と地図

これまで、いくつかのマイナーな可能性についてもあれこれ考えてきたが、とりあえずいちばん蓋然性がありそうな(ある意味、いちばん面白みのない)仮説を元に年表を作ってみよう。 西暦コーヒーの展開仮説エチオピアの出来事イエメンの出来事 575(コーヒー…

はじまりの物語 (18)

#今回で一段落。まずは年表から。

ザブハーニーの経歴を考える

アル=ジャバルティーがザビードで活躍したのは1380年代-1403年の間だと考えられる。したがってアル=アダニーその教えを受け、かつ1425年までにムフティーのような重職に任じられる者がいたならば……生年としては1370-80年頃であろうか? それならば10-20代…

ジャマールッディーンとスーフィズム

ザビードにおけるスーフィズムの歴史で注目すべきは、7代スルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールI世がアル=フィールザバーディーを大カーディーに任じてから、8代スルタン、アッ=ナースィル・アフマドが死ぬまでの30年間の間、すなわち1395-1424年に…

もう一つのスーフィズム:シャーズィリー教団の関わり

コーヒーとスーフィズムの関わりについて、これまでもっともよく議論されてきたのは、アル=ジャバルティーとの関連がありそうなカーディリーでもリファーイーでもなく、シャーズィリー教団である。アブドゥル=カーディルがコーヒーを初めて用いた三人の候…

アル=ジャバルティーはコーヒーを飲んだか?

歴史の話が長くなったが、ポイントをまとめると以下のようになる イエメンでのスーフィズムのはじまりは13世紀頃。郊外型の、聖者を中心とする小教団によるものが主体。 14世紀末にザビードでアル=ジャバルティーが現れ、民衆、スルタン、一部の学者らの間…

イエメンにおけるスーフィズムとイブン・アラビー

黎明期 アイユーブ朝がイエメンに侵攻(1173)した12世紀後半、アイユーブ朝のもとでスンニ派体制が構築されていったが、これとほぼ同時期にイエメンにスーフィズムが伝わったと言われている。この時代は、アラブ周辺の他の地域では、スーフィーの聖者(ワリー…

アル=アダニーへの系譜:「イブン・アラビー派」のスーフィーたち

この「最初のファトワー」を出したムハンマド・イブン・サイード・カビン・アル=アダニー…以下「アル=アダニー」と呼ぶ…は、「ファトワーを出した」という以上、ザブハーニーと同様に、ムフティだったと考えねばならない。「アル=アダニー」というニスバ…

考えられる可能性

この記述の信憑性については何ともいいがたい。何パターンかの可能性が考えられるからだ。 両方の史料が正しい 二人の「ジャマールッディーン・ムハンマド・イブン・サイード」がいた(一人は1425/38年没の「アル=アダニー」、もう一人は1470年没の「ザブハ…

もう一人の(?)ゲマルディン

イスラムや中東研究する上での参考資料として、『イスラーム百科事典』は、もっとも信頼性が高く重要な参考資料の一つだと言えるだろう。この百科事典の"kahwa"の項には、コーヒーに関する豊富な記述が、多くの参考文献とともに記されており、コーヒーを考え…

はじまりの物語 (17)

#ゲマルディンことジャマールッディーン・アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・サイード・アッ=ザブハーニーの謎に迫る その6(ザブハーニーシリーズの最終回) #ザブハーニー以前のファトワー。そして彼がスーフィーになった経緯を考える

コーヒーの合法性

こうしたイスラム法学の背景を踏まえて、当時のイスラム社会における「コーヒーの合法性」について考えてみよう。 大天使ガブリエルが預言者に授けたコーヒー? クルアーンにコーヒーを示す記述は見られないが、コーヒーの起源にまつわる「伝説」の一つに「…

合法と違法

さて、この「合法/違法」を判定する法的根拠(法源)は、イスラムの宗派によっても異なる。一般に、スンナ派(イエメンのラスール朝やターヒル朝なども含まれる)の場合は以下の4つがその法源として紹介されることが多い。 クルアーン(コーラン) スンナ…

イスラムの「法学」

この「許されたもの」と「禁じられたもの」を決めるのは一体何なのか。イスラムにおいてそれを決定しているのは神(アッラー)であり、信徒はその神の意志、神が定めた「法」(イスラム法、シャリーヤ)に従うことになる。預言者ムハンマドが存命の時代には…

はじまりの物語 (16)

#ゲマルディンことジャマールッディーン・アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・サイード・アッ=ザブハーニーの謎に迫る その5#前回からかなり時間があきました。実は来年1月(予定)に、共著でコーヒー本出します(歴史の話ではない)。詳細はま…

怪しげな仮説

上記を踏まえて、今回も怪しげな仮説を立ててみよう。 ユーカースは"All about coffee"において、ザブハーニーがコーヒーを是認したのを「1454年頃」と推定した。これは単に「中世と近世の境目」として書いたものにすぎなかったのだが、偶然にも、かなり近い…

ラスール朝後継者たちとザブハーニーの接点?

アブドゥル=カーディルの著述には、ザブハーニーが「ムフティー」と呼ばれる、イスラム法学者の中でも特に学識があり、公的に認められた立場であったことが記されている。以前推定したように、ザブハーニーの没年が1470年であり、そこから1400年前後の生ま…

ラスール朝とマッカをつなぐ「1454」

1454年に、アデンを去ったマスウードはハルカーの長老に保護され、その後、ザビードに入って再起を誓い、再びタイッズに攻め入ろうとしたものの、その途中のヘイズに着いたところで考え直し、そのままマッカに向かった。そしてマムルークのスルタンに庇護さ…

ラスール朝後継者と「1454」

ところで15世紀のイエメン史に注目すると、この「1454年」には、特別の大きな意味が付与されてくる。「1454年」とはまさに、ラスール朝が滅亡してターヒル朝が勃興した年に他ならないからだ。その王権のバトンタッチが行われた場所も、「ザブハーニーが初め…

文献上の「1454」

上述のようにド・サッシー『アラブ文選』の「訳文中には」「1454年」を示す記述はない。ところが実はよくよく読んでいくと、この「1454年」という年代が書かれた部分を一箇所だけ見いだすことができる。それは脚注(1)として、ド・サッシーが解説した部分であ…

転機としての「1454」

この「1454年」という年は、おそらく西洋史をかじったことのある人にはおなじみのはずだ -- 1453年、オスマン帝国がコンスタンティノープルを包囲し東ローマ帝国が滅亡した。伝統的なヨーロッパ史においてはこれが「中世」と「近世」の境目とされ、1454年以…

はじまりの物語 (15)

#ゲマルディンことジャマールッディーン・アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・サイード・アッ=ザブハーニーの謎に迫る その4。#今回のキーワードは「1454」 1454[L]―Sheik Gemaleddin, mufti of Aden, having discovered the virtues of the ber…

怪しげな仮説

さて例のごとく、今回も「怪しげな仮説」を唱えてみよう。 11世紀に書かれたイブン・スィーナー『医学典範』には薬としての「ブンクム」の記載があり、その性状とともに「イエメンからもたらされる」と書かれている。しかし以前考察したように、この薬用とし…

ザブハーニーと「ブンクム」のつながり

アブドゥル=カーディルやサハーウィーの記述を見る限り、ザブハーニーは法学や神学に関する学識が豊富だったことは確かだが、彼がイスラム医学に通じていたことを示す記述はない。にも関わらず、ザブハーニーは自分の病気を自己診断して、それを治すために…

『医学典範』における「ブンクム」

ここでもう一度「ブンクム」の記述を見てみよう。 その性状は第一に、熱にして乾である。他の者によれば第一に冷である。それは四肢を強化し、肌を清め、肌の下の湿気を乾かす、そして全身に素晴らしい香りを与える イブン・スィーナーは、ブンクムの性状を…

『医学典範』の理論と疥癬

イブン・スィーナーの『医学典範』でも疥癬についていくつか触れられているものの、彼の医学理論は基本的にヒポクラテスやガレノスの四体液説を継承、発展させたものであり、アッ=タバリによるヒゼンダニの発見については触れていない。 まずは『医学典範』…