ソロモン朝の「復興」

「ソロモン朝復興の祖」となる、イクノ・アムラクには多くの伝説・伝承が付随しており、どこからどこまでが史実なのかがよく判らないのが現状だ。少なくとも、彼がアクスム王国の最後の王ディル・ナオドの血統に連なる者、すなわちエルサレムのソロモン王とシバの女王の末裔を「自称」し、『ケブラ・ナガスト』などエチオピア帝国の史料が、王権の正統性を主張するために、その説を支持してきたことには間違いがない。また、彼はハイク湖のイスティファノス修道院で幼少期を送り、聖テクレ・ハイマノトの庇護の下で教育を受けていたとも伝えられる。ただし、これは後にショアに修道院を開いたテクレ・ハイマノトや他の修道僧たちとソロモン朝との繋がりを強調するために双方が利用したエピソードだとも言われている。


ソロモン朝側の伝承によれば、イクノ・アムラクは成人した後、ザグウェの王「ザ=イルマクヌン(Za-Ilmaknun)」によってラリベラの牢獄に捕らえられていたと言う。これはソロモン朝にとって「呪われたエピソード」と見なされ、当時のザグウェ王の名前は抹消されている -- "Za-Ilmaknun"とは「隠された」もしくは「知られていない」という意味である。時代的には、ラリベラ王の次代のナアクエト・ラアブか、その次のイェトバラクのいずれかであるという説が有力なようだ。その後、イクノ・アムラクは牢獄から逃れ、アムハラやショアに潜伏し、ショアやイファトなど周辺のイスラム勢力とも手を組んで、ザグウェ朝打倒の機会を伺っていたという。

そして1268年、後継者争いで混乱するザグウェ朝に対して、イクノ・アムラクらの軍勢が攻撃しキリスト教国の実権を掌握することに成功した。そして1270年、イクノ・アムラクキリスト教エチオピア王国の「王」として即位し*1、ソロモンの血統に繋がる正統な王朝「ソロモン朝」の「復興」が宣言されたのである。


イクノ・アムラクザグウェ朝を攻めるにあたって、ショア近傍のイスラム教徒らや、奴隷などの非支配階級層の力が大きかったことは明らかである。例えば、当時の絵画にはイクノ・アムラクの王座をイスラム教徒らや奴隷らが囲んでいる様子が描かれている。またマムルーク朝のスルタン、バイバルスに宛てた書簡でも、自分のもとにイスラムの騎兵がいることを書き記している。また王座についた後イクノ・アムラクはショアからアムハラの一帯を治めることとなったが、このとき同時に、ショアやイファトのスルタンたちのスルタン位と国土を「承認」しており、その恩義に報いたことが伺える。ソロモン朝の復興が成った後、イクノ・アムラクは西部のダモト地方に侵攻しており、背後に当たるショアやイファトとの同盟を維持することに意味があったからだとも考えられる。

イクノ・アムラクマムルーク朝のバイバルスに複数の書簡を送っており、その中で「スルタンの慎ましいしもべ」と称して友好関係を築くことに腐心していたようだ。ただしその一方で、イクノ・アムラク自身がキリスト教エチオピア司教になろうと考えていたため*2イスラム教と一定の距離を置くようにしていたことも確かである。

*1:即位後、イクノ・アムラクは"Tasfa Iyasus"という名も名乗った。このようにソロモン朝では即位後に王としての名(throne name)を名乗った例が多い。日本の皇室で天皇としての名前と本名が別になっている(例えば「昭和天皇 - 裕仁」のように)のと似ているかもしれない。なお"Tasfa Iyasus"はイクノ・アムラクの父の名であったと言われる。

*2:結果的に失敗に終わる。