アリーの治世:後半(1465-78)

アーミルI世の死後、ターヒル朝イエメンでは反乱分子の蜂起が相次いだ。1465年、イッブ近郊のズー・ジブラーでは、前年に和平を結んでいたフバイシー族が再び反乱を起こし、その後スルタンに鎮圧された。またティハーマ地方の諸部族も不穏な動きを見せ、ティハーマ地方に隣接するザビードでは1467年頃から不審火が相次いでいた。ティハーマ地方の反抗的な部族の代表であるクライシュ族やマアジバー族は、それまでの鎮圧によって勢力を削がれていたが、1468年にはティハーマ地方北部のアル=カビユーン族、1469年にはルバート族、そしてバニ=ハフィース族など、それまでターヒル朝に従っていた諸部族が相次いで反乱を起こした。中でもバニ=ハフィース族との戦いは激しく、1470年の戦いで鎮圧することに成功したものの、この戦いでターヒル朝設立時からの忠臣で、スルタンから最も信頼されていたイブン・スフヤーンが命を落とした。この時期、アリーは有能な弟に続いて最も信頼できる忠臣を失い、またそれまで信頼してきた部族の裏切りに直面することになったのである。彼には子がおらず、次第に親族である兄弟の息子、甥達を頼るようになっていった。


1474年、アリーは病気で臥せり、スルタンとしての政務に支障を来すようになった。そのため彼の甥達の中でも有能だった二人がアリーに指名されて、彼の代行になった。一人はターヒル家の三男、ダウード・イブン・ターヒルの息子、アブドゥル=ワッハーブであり、もう一人はターヒル家の四男で先代スルタン、アーミルI世の息子の一人、ユースフ・イブン・アーミルである。アブドゥル=ワッハーブがアリーの下でスルタン代理として勤め、ユースフはザビード総代になった。

ユースフは非常に民衆に人気があり、ザビード入りした彼を歓迎する催しは、スルタン、アリーのときよりも盛大に行われたそうだ。ユースフは学問に造詣が深く、優れた言語学者であり医学者であったという。ただし、イスラム教徒としてはアリーほど敬虔だったというわけではなかったらしい。

マッカのジーザーン侵攻

この頃、イエメンに隣接するジーザーンとマッカでも一つの動きがあった。マッカの長官シャリーフ・ムハンマド・イブン・バラカートと、ジーザーンの長官、アフマド・イブン・ディーブは以前からずっと仲が悪い事で知られていたが、1477年に、イブン・バラカートがジーザーンに大軍を率いて侵攻したのである。この侵攻の結果、ジーザーンの街は破壊・略奪され、イブン・ディーブの息子の一人がザビードのユースフの下に逃れ、そこで匿われた。この出来事から、ユースフはマッカやジーザーンなど外部勢力との関わりを持つようになる。

スルタン、アリーの死

1478年、二代スルタン、アリーが病没した。死の間際、彼は病苦のせいで一層頑なになっており、唯一心を許していたのがスルタン代行、アブドゥル=ワッハーブだったようだ。臨終の床でアリーは彼を後継者として正式にスルタンに任命し、アリーの葬儀は彼によって執り行われた。弔辞ではアリーがザビードに多くの施しをしたことや、その敬虔さが讃えられ、彼の治世の一端を伺い知ることができる。アリーの治世は、諸部族の鎮圧に明け暮れる傍ら、ザビードをはじめとする各都市に多くの建物が建造され、ラスール朝時代の遺跡が修復された。ティハーマ地方ではヤシなどの農業が奨励され、ラスール朝末期にイエメン各地が被った(経済的)損害からの復興が行われた時代でもあった。


アブドゥル=ワッハーブがアリーから三代スルタンに任じられた知らせを聞いて、ショックを受けたのがユースフである。彼は、自らが王位請求することこそなかったものの、スルタン位については親族で話し合って決めるべきだと主張し、アブドゥル=ワッハーブに叛旗を翻すことになるのだが、この顛末については後日にしたい。