ラスール朝の落日、ターヒル家の日の出

学術都市ザビードと交易都市アデンを中心にして繁栄したラスール朝だったが、14世紀終わり頃から翳りが見え始める。ラスール朝は元々、外国からやってきた「余所者の支配者」によるスンナ派イスラム王朝であり、反抗的な現地部族やザビードの奴隷たちなど、政治的な反乱分子を内包しつづけていた。さらに上イエメン地域を支配するシーア派の一派、ザイド派ラシード朝とはずっと犬猿の仲であった。ザイド派は隙あらば南へと攻め入り、1323年には既にサヌアザイド派に占拠され、その勢力下に置かれていた。14世紀末までに、ザイド派サヌアのさらに南、ザマールまでその領地を広げていた。


14世紀末から、ザマール周辺の領有を巡るザイド派ラスール朝の争いは激化していった。このことが、二つの結果を生み出した。一つは、ザイド派との国境付近を統治していたラスール朝の家臣で、後にラスール朝にとってかわることになる、ターヒルの権力が増加していったこと、もう一つは、ラスール朝で軍事費拡大が深刻化し、それを補うためにアデンからの収入を増やそうとして、逆にアデンを衰退させてしまったことである。

ターヒル家の発展

ターヒル家は、ザイド派ラスール朝の国境付近のジュバンやミクラーナを領地とする、地元出身の指導者(Mashayikh)…いわば低い身分出身の地方豪族である。ターヒル家の記録が初めて文献に現れるのは1391年であり、このときターヒル家はラスール朝の代表としてザイド派と敵対した。その後15世紀のごく初期の短い期間、彼らはザイド派側に付き、その後再びラスール家側に付いて、以後はラスール家の忠臣として南進するザイド派勢力を食い止める防波堤の役割を果たして行った。後にターヒル家はラスール家と婚姻関係を結び、ラスール家の重臣となっていった。

1391年、ザマール近郊でザイド派イマーム(最高指導者)に対する反抗勢力が相次いで蜂起した。ザマールの東にあるラダアの町も、ザイド派の勢力下で代官が派遣されていたが、反ザイド派住民がその代官を追放した。これに乗じて失地恢復を図ろうとしたラスール朝は、ザイド派との国境に近いジュバンを統治していた地元指導者、ターヒル・イブン・アーミル(後のターヒル朝の父祖)を指揮官に任じ、ラダアへ派遣した。彼はラダアの住民に迎え入れられ、そこを拠点としてザマールに攻め込んだ。しかし結果的に破れ、大きな損害を受けてラダアへの撤退を余儀なくされた。


1400年、ラスール朝のスルタン、アル=アシャフ・イスマーイールI世が亡くなり、その息子、後に「暴君」として近隣諸国までその名を轟かす、アッ=ナースィル・アフマドがスルタンに即位した。このときの騒乱に乗じてザイド派イマームがラダアに侵攻し、この当時ラダアを治めていたターヒルの息子、アリー(アリー・イブン・ターヒル*1)に、ナスルという要塞を明け渡して臣従するように迫った。アリー・イブン・ターヒルはすぐさま要塞を明け渡し、その代わりに名馬と法衣を下賜されて*2、ザイド勢に下った。しかしその後、イマームがザマールを離れた隙にアリー・イブン・ターヒルは謀反を企て、それに怒ったイマームは引き返して、彼の領土のあちこちを破壊した。アリー・イブン・ターヒルの兄弟であるムハンマド・イブン・ターヒルイマームの元に訪れて、アリー・イブン・ターヒルの行いを謝罪したことで彼は許され、いくらかの砦は事なきを得た。


1406年、ラスール朝の大臣が自分の領地への帰路に、ターヒル家の一人であるマウーダーの領土を通行中、マウーダー領の人々を殺し、町を破壊した。この知らせを聞いたラスール朝のスルタン、アッ=ナースィル・アフマドはマウーダーの領土に派兵して事態を収束し、マウーダーと和平を結んだ。この和平以降、ターヒル家のマウーダーとラスール家の仲は回復に向かったようだ。1409年にマウーダーが亡くなり、その子ターヒル・イブン・マウーダーが後を継ぐと、両家の結びつきはより深まった。1414年、アッ=ナースィル・アフマドはターヒル・イブン・マウーダーを呼び寄せ、彼に儀礼用のローブを与えた。さらに、ラスール家に対する忠誠の証として、ミクラーナの地に将来「ダール・アル=ナイム(永遠の神殿*3)」と名づける予定の神殿を建設することを命じた。帰国後の彼の働きにスルタンも満足したのであろう…翌1415年に再びターヒル・イブン・マウーダーがスルタンのもとを訪れた際には、タイッズで歓迎のパレードが盛大に催されたという。


1415年、ザイド派イマーム率いる軍勢が南侵を行い、ターヒル家の領地を襲った。その度にラスール家のスルタンは、「まるで自分の家族を守るように」ターヒル家に多数の援軍を送って報復し、ザイド軍は撃退された。ザイド派の侵攻はその後も1418、1419、1421と繰り返された。その都度ターヒル家の領地が荒らされ、その一部が奪われたが、ターヒル、ラスール連合軍がザイド派を追い返した。1429年には逆に、ターヒル・イブン・マウーダーがザイド派の要塞の一つを落とし、その祝賀会がラスールの王宮で行われたりもした。


1432年、ターヒル・イブン・マウーダーの娘の一人が、当時のラスール朝のスルタン、アッ=ザーヒル・ヤヒャー*4の元に嫁いで、ラスール家とターヒル家は婚姻関係で結ばれた。こうしてターヒル家はラスール家にとっても特別な、重臣の座へと上り詰めて行った。

この時期のターヒル家は、あくまでラスール家、すなわち「外からやってきた支配者」に従う、忠実な、地元出身アラブ人の地方豪族の立場であったようだ。しかしスルタンの妃になった彼女の兄弟、すなわちターヒル・イブン・マウーダーの息子たちの中にいたのが、アリーとアーミル -- 後にラスール家の子孫たちを排して、ターヒル朝を興した二人の兄弟である。

アデンの衰退

ラスール朝下のイエメンでは、14世紀末から15世紀の初めにかけてザイド派による侵攻が激化し、それに加えて、ティハーマ地方の反乱分子であるマアジバー族や、ザビードの奴隷たちもしばしば反乱を起こした。イエメンの情勢悪化は内陸部や沿岸部での商業活動を妨げることになり、またインドやエジプトから来る商人たちも、危険な地域での商売を敬遠しがちになった。これらの戦争はラスール朝の軍事費用を増大させ、さらに後に「暴君」と呼ばれる当時のスルタン、アッ=ナースィル・アフマドが行った豪華な神殿の建設も、ラスール朝の財政を圧迫した。


この当時までラスール朝の経済を支えていたのは、インド洋交易の拠点になっていたアデンから得られる収入であった。1420年頃から、アッ=ナースィル・アフマドは収入を増やすために、アデンから陸路で輸送するときには、ラスール家が保有するラクダ隊商を利用することを商人たちに強制した。当時アデンは海路だけでなく、そこから陸路を介する輸送の拠点でもあり、その陸路輸送を独占することで収入を増やそうとしたのである。また彼らは、その「抜け道」になりうるエジプトへの船便での商品輸送を、いろいろな理由を付けて妨害した。その上、アデンを利用する商人たちには、これまでより多くの税が課せられるようになった。


これによってインド洋からの交易商たちはアデンを敬遠するようになった。またアレクサンドリアやダマスカスの交易相手からは、到着の遅延や余分な出費に対する不平が噴出し、たまりかねた交易商たちはアデンに代わる港を探し始めた。1424年にはカリカットの船長イブラヒムが、いくつかの候補地の中からマッカの外港ジッダを最適な港として選定した。1425年にはブルジーマムルーク朝バルスバーイが、ヒジャース地方に攻め入ってラスール朝からこの地域を奪取し、敵対するラスール朝のアデンで荷揚げされた荷物の交易禁止令を出した。これらに後押しされてジッダがインド洋交易の新たな拠点にのし上がり、アデンの衰退は決定的になった。


アッ=ナースィル・アフマドはさらにアデンの商人たち、中でもカーリミー商人と呼ばれる、エジプトとの繋がりの深い交易商たちに重税を課した。それは彼らの収入の半分にも上る法外なものだったという。これを聞いたカーリミー商人たちは、自分たちの商品の半分を置き去りにして、アデンから急いで逃げ出した -- 今後ずっと儲けの半分を吸い取られ続けるよりは、とっとと逃げ出して別の場所で再起を図る方がましだし、こんな無茶なことを言い出す「暴君」の下にいたのでは、将来どうなるか判らない、と。


こうしてアッ=ナースィル・アフマドの治世の終わりには、アデンでの交易はほぼ完全に停止していたという。

例えば、この時代に中国からやってきた鄭和の「宝船(ほうせん)」は、交易崩壊前の1417年にアデンを訪れたときには大きな成果を上げることができたが、1433年に訪れたときにはアデンでは取引がまったく成立せず、ジッダへ向かっている*5

その後1435年頃にはラスール朝が政策を転換し(主としてマムルーク朝エジプトからの)侵犯船の取り締まりと、インド洋商人の保護をを行うようになったことで、少しずつ回復していったようだ*6

*1:ターヒル家の歴史上で有名な「アリー」にはもう一人いる。後述のマウーダーの子孫で、1454年のターヒル朝勃興の際に活躍した兄弟の一人「アリー」…アリー・イブン・ターヒル・イブン・マウーダーである。紛らわしいことに、彼の父の名も「ターヒル」なので、「アリー・イブン・ターヒル」だけではどちらか判らない。それがアラブ人の名前の付き方なので仕方が無い。

*2:法衣の下賜は、ターヒル家がシーア派に転向することを意味したと考えられる。ターヒル家は元々地元出身の一族であり、スンナ派ラスール朝スルタン)勢、シーア派ザイド派イマーム)勢のどちらにつくか、この初期の段階ではまだ流動的であったことが伺える。

*3:実際には"Dar al-Nei'm"だと単に「天国」の意味になるため、本来ならば"Dar al-Khatb al-Muqim"と名付けるべきだったのに、と匿名の作者によって書かれた当時の年代記"Ghayah"の中で、ちくりと指摘されている。

*4:アッ=ナースィル・アフマドの弟に当たる

*5:ただし、1417年の第5回宝船と1433年の第7回宝船の間に、鄭和は1421/22年にも第6回宝船でアデンを訪れている。このときの主な目的は交易そのものではなく、第5回のときに中東から中国に渡った各国からの使節を送り届け、さらに各国に親書を届けるという外交的な意味合いが強かったようだ。このとき中国側からラスール朝のアッ=ナースィル・アフマドには銀が贈られたが、それと同時にインド洋交易商の扱いに対する苦言が述べられた。またあくまで中国の覇権を主張する親書の内容と、使節の振る舞いが礼儀を失していたことで、ワンマンな為政者アッ=ナースィル・アフマドの不興を買ったようだ。このことも1433年のアデン交易の失敗に影響していたかもしれない。

*6:海上交易の世界と歴史』 2・3・3 西南アジアに押し入るポルトガル - http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi3/page013.html