ラスール朝の終焉

その後もラスール朝の凋落はとどまることがなかった。1430年代以降、アデンが徐々に回復していく一方で、ラスール朝では飢饉や疫病が相次ぎ、先住部族やザビードの奴隷らによる小さな反乱が繰り返された。


そんな中、1442年にラスール朝のスルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールIII世の死亡が伝えられた。一説によれば、アル=アシュラフ・イスマーイールIII世は晩年発狂していて、彼の甥*1であるムザッファル(アル=ムザッファル・ユースフ・イブン・マンスール)に誅殺されたとも言われる。

正統後継者ムザッファル&ターヒル家 vs ザビードの「偽スルタン」たち

彼の死後、ムザッファルがスルタンを継承することを宣言したが、彼以外のラスール家の者たちもまた、自分こそがスルタンであると名乗りを上げた(王(=スルタン)位請求者)。

その機に乗じてザビードの奴隷たちが反乱を起こした。彼らはムハンマド・イブン・イスマーイール・イブン・ウスマーンというラスール朝王位請求者を擁立し、彼こそが正統後継者だと主張した。ザビードの奴隷たちは、彼を「アフダル*2」という尊称(ラカブ laqab)で呼んだ。


アフダルは、ザビードの奴隷たち以外からも支持を得るために、この地域周辺のティハーマ地方の先住部族で、ラスール朝に対して代々反抗的だったクライシュ族とマアジバー族に、資金や馬、武器などを提供した。このため彼らの部族の勢力が増大し、この地域でのラスール朝の重要な収入源であったナツメヤシ畑の多くが、彼らに占有されていった。なおクライシュ族とマアジバー族はまもなく小競り合いを起こし、クライシュ族が優位に立っている。アフダルのこの動きは、ラスール朝全体としての存続を脅かすものであったため、ラスール朝の忠臣であるターヒル家はムザッファルの側に付き*3、ともに「偽のスルタン」アフダルを排除しようとした。


彼らは、自分たちのもとにアフダルを連れてきたものには恩賞を授けるという触れをだした。元々、ザビードの奴隷たちは一枚岩ではなく、その中にいくつかの小さなグループが分かれて存在し、その考え方もばらばらだった。このため恩賞に目がくらんだグループの一つがアフダルを捕らえて、ムザッファルとターヒル家のいるタイッズに連行した。そこでアフダルは殺され、ムザッファルはザビードに平和が戻ったと宣言した。ザビードの奴隷たちはその働きに見合うだけの恩賞をさらに要求したが、ムザッファルらが応じなかったため、ラスール朝の税収になる、ザビード周辺の作物をめちゃくちゃにして反抗した。さらにザビード近郊のヘイズの町にいた、アフマド・イブン・ナースィルという人物を連れてきて、再び自分たちのスルタンとして祭り上げた。しかし、今度の「偽スルタン」とザビードの奴隷たちはうまくいかず、ザビードの町ではほどなく略奪や破壊が横行して、「まともな商売など行えない」荒みきった状態になった。

ムザッファル&ターヒル家 vs 王位請求者マスウード

1443年、ラスール朝のムザッファルと、また別の王位請求者マスウード(アル=マリク・アル=マスウード・サラールッディーン・イブン・アル=アシュラフ・イブン・アッ=ナースィル*4)との間で後継者を巡る戦いが生じた。ターヒル家もムザッファル側について戦闘に参加した。しかしこのときラヒジで行われた戦いでラスール家の弱体化ぶりを目の当たりにしたターヒル家は、表向きはムザッファルに味方しながらも、戦いの後でどう動くかについて、野心を抱き始めてたと伝えられる。


1444/5年、戦いの中にあったターヒル家の人々に、北イエメンで新たな紛争が起きたという知らせが届いた。北イエメンでも1436年にザイド派イマームの後継者を巡る争いが起きており、しばらくラスール朝との戦いは小康状態にあったのだが、マンスール・ナースィル(アル=マンスール・アッ=ナースィル・イブン・ムハンマド)が他の二人の後継者候補を排斥することに成功して混乱が収束し、再び南への野心を見せ始めていた。そんな中、ザイド派の支援者の一人だったアール・アマールがターヒル家と争いを起こし、劣勢になったアール・アマールがザイド派の新イマームマンスール・ナースィルに助けを求めたため、この機とばかりにマンスール・ナースィルがターヒル領まで南下してきたのである。このためターヒル家はそちらへの対処に向かい、下ってきたマンスール・ナースィルを交えて和平を結んだ*5


一方、マスウードの方でも1445/6年に、ティハーマ地方でクライシュ族が反乱を起こしたため、そちらに指揮官を派遣して対処を余儀なくされた。このとき、クライシュ族を制圧するために、マスウードはかつて仲が悪かったマアジバー族 -- 彼らは以前クライシュ族らとともにラスール朝に反抗したが、少し前にヤシ栽培の利権を巡ってクライシュ族に敗れていた -- と同盟を結んでいる。


1446/7年、クライシュ族の反乱鎮圧に区切りをつけたマスウードは、再びラスール朝のムザッファルに戦いを挑み、ムザッファルがいたタイッズの要塞を包囲した。このとき、まだターヒル家は自領から戻ってきておらず、その隙をついた形である。ムザッファルはターヒル家に援軍を要請し、アーミル・イブン・ターヒルが救援に駆けつけたが、彼が到着したときにはすでにタイッズはマスウードの手に落ちていた。アーミルはマスウードを打ち負かし、敗れたマスウードは1448年マウザに、その後アデンへと逃れた。アーミルとムザッファルの連合軍はマスウードを倒すために兵を送り、再びラヒジでの戦闘で彼を敗走させたが、逃れたマスウードは1451年にタイッズの砦の一つを落とし…という案配で、一進一退の決着の付かない戦いが続いた。なおこの時期あたりから、ムザッファルの名前は文献に現れなくなり、ターヒル家が表立って、マスウードと対立するようになっている。1453年にアーミルはラヒジに家を建てた後、より大勢の軍隊と合流するために、自分の領土(おそらくはミクラーナ)へと一旦戻って行った。

マスウード vs ザビードのスルタン、ムアヤド

一方この頃ザビードでは、1451年に奴隷たちがまた新しく、フサイン・イブン・ターヒル・ラスーリという王位請求者を「ムアヤド al-Mu'ayyad」という尊称で呼んで担ぎ上げた。とは言えザビードは相変わらず完全な無法地帯と化しており、その被害はザビード市内だけでなく、すでに周辺地域からティハーマ地方にまで広がっていったし、ザビードの奴隷たちも相変わらず一枚岩ではなかったようだ。1451年から1454年にかけて、ターヒル家とマスウードの争いに加えて、マスウードとムアヤドの間でも戦闘が発生しつづけた。

1454年、理由はよく判らないが、それまで1448年頃からアデンを本拠地としていたマスウードが、アデンを後にして逃げ出した。するとその直後に、今度はムアヤドがアデンを占拠した。この時期、短期間ではあるがムアヤドが、ザビードとアデンというイエメンの重要都市の二箇所を支配していたことになる。彼らはアデンで、自分たちが正統な後継者であることをアピールする声明を出していたらしい。

*1:実際には、アル=アシュラフ・イスマーイールIII世から見ると従兄弟の孫(従甥孫)に当たるようだ。

*2:"al-Malik al-Afdal"で、通例「アル=アフダル」と呼ばれたようだ。アラブ圏では珍しくない名前の一つらしく、ラスール朝のかつての偉大なスルタンにも同名の人物がいる。

*3:ムザッファルが誅殺したと噂されたアル=アシュラフ・イスマーイールIII世は、ターヒル家の娘が嫁いだアッ=ザーヒル・ヤヒャーの息子であり、ターヒル家とムザッファルの関係は、元々は微妙だったようにも思える。ただしまた、年齢については明らかでないものの、ムザッファルは先代のスルタンの従兄弟の孫、後に覇権を競うマスウードの甥に当たると考えられることから、かなり年が若かったようでもあり、ターヒル家が当初、彼をスルタンにした傀儡政権を考えていた可能性もあるかも知れない。

*4:その名から、ムザッファルの叔父に当たると考えられる。

*5:ただしマンスール・ナースィルは、帰りがけにこっそり、以前に受けていた被害の報復のためにターヒル領の一部を破壊していった。