アリーの治世:前半(1460-5)

1460年、アーミルI世の承認を受けて、アリーが二代スルタンとなった。とは言え、実質的には兄弟統治体制に変化があったわけではなく、その治世の最初の5年間(アーミルI世が戦死するまで)は、ほとんど先代から連続した時代と考えてよさそうだ。アーミルI世が退位した理由はよく判らないが、ティハーマ地方の反乱鎮圧の目処がついてアリーに余裕が生じた一方、ザイド派との対立が激化の兆しを見せており、アーミルI世がそちらに集中したかったためかもしれない。

アリーが即位したのと同じ1460年には、ザイド派イマーム(最高指導者)マンスール・ナースィルとの間で激しい衝突が起きた。この戦いで、ターヒル家の五人兄弟の末っ子、ムハンマド・イブン・ターヒルが殺される。その後、さらに激しさを増す戦いの途中でマンスール・ナースィルは死に、ターヒル家はサヌアをその支配下に治めるが、その後の戦いで初代スルタン、アーミルは命を落とすことになる。

ザイド派との戦い〜アーミルI世の死

この辺りの勢力図は、なんというか、もう本当に嫌になるくらい、非常に複雑である。ザイド派シーア派)と、ラスール朝ターヒル朝スンナ派)は基本的に犬猿の仲で、要所要所では、結局この対立が舵を取ることになるのだが、ザイド派内での仲違いから、ターヒル家に助けを求めたり一時的に同盟したりして、でも一段落ついたらまた対立する…という繰り返しである。

イマーム候補者の対立

北イエメンでは、1436年にザイド派イマーム(最高指導者)の座を巡って、三人の後継者候補の間で争いが生じていた。最終的には、最有力候補だったマンスール・ナースィルが、他の二人を幽閉して決着した。イマームによって幽閉された二人の候補者のうちの一人、サラールッディーンは獄死し、残る一人、ムタッハーは逃げのびた。


ターヒル朝が成立した翌年の1455年、サーダを実質的に統治していたサラールッディーンの未亡人が揉め事を起こしたため、マンスール・ナースィルはそれを口実にサーダに向かい、彼女とその大臣を捕らえてサヌアに連行した。

しかしサヌアでは、ナースィルが不在の隙を見計らって、ターヒル家に唆されたムタッハーが反乱を起こした。サヌア近郊にいたハムダーン族もムタッハーに協力し、ターヒル家・ムタッハー・ハムダーン族の反ナースィル同盟によってサヌアを占拠しようとしたが、すぐに引き返してきたマンスール・ナースィルによって鎮圧された。

ターヒル家との争い

その後、ターヒル朝ザイド派の間で小競り合いが続き、1460年には大きな紛争に発展した。アーミルI世が戦場に向かい、マンスール・ナースィルとの間で講和が結ばれる手はずになっていた直前、ザイド派側が誤ってターヒル家の五人兄弟の末っ子、ムハンマド・イブン・ターヒルの陣を攻撃したことで戦いが始まり、アーミルI世の救援も間に合わず、この戦いで末弟を殺された。ターヒル側は一旦敗走したものの、翌1461年にはアーミルI世とアリーが弟の弔い合戦のために大軍を出し、マンスール・ナースィルの拠点であったザマールを包囲して陥落させた。マンスール・ナースィルは、より多くの自軍を駐留させていたサヌアに逃れた。ザマールの長老たちはターヒル家に従順な姿勢を見せたため、アーミルI世らは親族の一人を代官としてザマールを任せることにした。スルタン、アリーは自領に戻り、アーミルI世はハドラマウトでアブー・ドゥジャナーの兄弟が起こしていた海賊行為を鎮圧するためシフルに向かった。

マンスール・ナースィルの末路

同1461年、サヌアの軍勢と合流したマンスール・ナースィルは、アーミルI世らがいない隙をついてザマールを陥落させ、ターヒル朝の代官を追い出した。


アーミルI世はその報復のため、ムタッハーとハムダーン族との反ナースィル同盟を復活させ、サヌアとザマールの二手に分かれて攻撃を計画した。最初にムタッハーとハムダーン族が、サヌアと周辺地域を攻撃した。サヌアにはザイド派の代官、ヤヒャー・カッラーズと、マンスール・ナースィルの息子、ムハンマド・イブン・ナースィルがいて、この戦いでは同盟側にも大きな被害が出た。少し遅れてアーミルI世がマンスール・ナースィルのいるザマールを攻撃し、主戦力をサヌアに送っていたマンスール・ナースィルはザマールから逃げ出し、残った家臣や護衛らとともにサヌアへと向かった。


だがサヌアへと向かう途中、マンスール・ナースィルはほんの気まぐれで道をそれ、ウルクブという地域に立ち寄った。そこの住民らはザイド派寄りの者たちで、彼ら一行を大いに歓待した。すっかり気を許したマンスール・ナースィルであったが、持参した食料が少なくなり護衛の人数が減ると、住民たちの態度は一変し、マンスール・ナースィルとその家来らは彼らから身ぐるみを剥がれ、さまざまな侮辱を受けた。ウルクブの住人の数名が、ターヒル家のアーミルI世のところに行って事情を説明すると、彼は飛び上がって喜び、彼らにたくさんの褒美を与え、さらに憎きマンスール・ナースィルを自分の前に連れてくるよう、手枷と命令書を持って戻らせた。


しかし彼らがウルクブに戻る頃には、すでにこの事態はザイド派の行者たちにも伝わっていた。ウルクブの住民らに対して、彼らは「マンスール・ナースィルを、ターヒル家(=スンナ派)に引き渡して処罰させるのは、ザイド派の法そのものを破壊する行為である。同じザイド派であるムタッハーを、彼の次のイマームとし、マンスール・ナースィルの処分は彼に任せるべきだ」と主張した。ウルクブの族長はそれに納得してムタッハーに手紙を書き、ムタッハーがターヒル朝には無断でこれを了承したため、マンスール・ナースィルはサヌアの外に陣を張っていたムタッハーの元に連行された。彼はその後、カウカバーン山の要塞に幽閉され、さらにその後、身柄を移されたアルースという要塞で1464年に亡くなっている。

サヌア陥落

マンスール・ナースィルがムタッハーに捕らえられた知らせは、サヌアの街内にも届いた。マンスール・ナースィルの息子、ムハンマド・イブン・ナースィルと、ザイド派の代官ヤヒャー・カッラーズは、街からムタッハーの陣に攻め出て彼を奪回しようとしたものの、その動きをいち早く察したムタッハーが、彼をカウカバーン山に連行していたため、果たせなかった。

サヌアの住民から見ると、この戦いは元々、ナースィル派とムタッハー派の、イマームの座を巡る争いの延長戦みたいなものである。このため、ムタッハーを新イマームにすべきという人々が徐々に増えていった。例えば、マンスール・ナースィルに夫サラールッディーンを殺されていた彼の未亡人はサヌアの中にある神殿に立てこもって、神殿の屋根の上から毎日、召使いらとともにムタッハーを応援して叫びつづけた。これが原因で小競り合いとなり、サラールッディーンの未亡人が篭城した神殿の扉は壊され、未亡人とその娘は、ナースィル派によってどこかに連れ去られたという。


サヌアでは、ナースィル派がまだ辛うじて支配を保っていたものの、日々勢力を増すムタッハー派との小競り合いが繰り返され、事態が好転しない前者は劣勢に追い込まれていった。そしてナースィル派の筆頭、イブン・ナースィルとヤヒャー・カッラーズは自分たちの生き残りをかけて、あろうことか「ターヒル家との」和平交渉を企てた*1。しかし蓋を開けてみれば、和平どころかターヒル朝への降伏に等しく、交渉役に当たったヤヒャー・カッラーズが自己保身に走ったせいだと、サヌア住民たちから大いに恨みを買った。

こうして1461年、サヌアにはターヒル朝の代官として、アーミルI世やアリーの甥にあたるアブドゥル=ワッハーブ・イブン・ダウード -- 後の三代スルタン --が着任し、ターヒル朝による支配を受けることになったのである。ただし、このときの交渉の甲斐あって、イブン・ナースィルはサヌアに居住することを認められた。これが後に、ザイド派にとっての復権の鍵、ターヒル朝にとっての災いの種になる。

ザイド派サヌア奪還

マンスール・ナースィルの死後、ムタッハーがザイド派イマームを名乗ったが、必ずしもザイド派全ての人々に受け入れられたわけではなかった。ターヒル朝に占領されたサヌアでは、交渉役を勤めたヤヒャー・カッラーズが、ターヒル朝によってサヌアの次官に任命されると、人々は「カッラーズに騙された」とイブン・ナースィルに同情し、彼を擁立しようという動きも現れはじめた。1464年、この動きがアーミルI世の耳にも届き、サヌアに新しく赴任したもう一人の次官、ムハンマド・イーサー・バダーニーに手紙を送り、彼の住居をサヌアの南に移し、不穏な動きから遠ざけるように依頼した。バダーニーはこの知らせをイブン・ナースィルに伝え、(よせばいいのに)事実上の幽閉であることを教えた。


この処遇を恐れたイブン・ナースィルは、亡き父の次官を勤めていたムハンマド・イブン・イーサー・シャーリブに手紙を送り、逃亡の手助けをしてくれるよう依頼した。イブン・イーサー・シャーリブはこれに応じ、バダーニーらが兵のほとんどを連れて徴税に出かけた隙をついて、「白馬の王子様」さながらに、囚われのイブン・ナースィルの元にやってきて、彼を自分の領地であるズー・マルマルに連れ去ろうとしたのである。

だが、サヌアの住民たちがそうはさせなかった…と言っても彼らを妨害したのではない。逆に彼らにサヌアを奪還してくれるよう懇願したのである。住民たちは彼らとともに、まず「裏切り者」のカッラーズの住居を襲撃し、次に城を襲って中に残っていた少数の兵を追い出して、サヌアは完全に彼らザイド派の手に戻ったのである。

アーミルI世のサヌア包囲

同1464年、恭順していたはずのイブン・ナースィルが裏切り、サヌアの人々が造反したという知らせを聞くと、アーミルI世は怒り狂い、すぐさま大軍を率いて向かった。サヌアを完全に包囲すると、多数の投石機が組み立てられ、サヌアの建物や街壁は砲撃によって破壊された。それでもアーミルI世の怒りは収まらず、サヌア近隣の畑も破壊し尽くされ、井戸を埋め立て川をせき止めた -- 当時砂漠に暮らす人々にとって、このような水源の破壊は一線を越える残虐行為だと考えられていたようだ。


アーミルI世によるサヌアへの攻撃は、イスラーム教で争いが禁じられた*2第11月(ズー・アル=カアダ)に入ってからも続き、彼らが野営を解いたのは13日*3になってからであった。アーミルI世は、次の第1月(ムハッラム:争いは禁じられる)に戻ってくると言い残して、自領であるジュバンに引き上げていった。


ターヒル朝の攻撃により大きな被害を受けたサヌアだが、住民たちの反抗の意志はなお固く、イブン・ナースィルに多額の資金を提供して支援した。その資金を元に再び近隣から兵を集め、街壁が修復された。そして第1月、約束どおり戻ってきたアーミルI世は、サヌアの抗戦姿勢を目の当たりにすると、一層容赦のない攻撃をしかけた。水の供給を完全に断ち、砦や畑を破壊した。さらにジュバンから1000頭の牛を連れてきて、残った井戸や川を完全に使い物にならなくなるまで破壊しつくした。その非道な弾圧は、ターヒル朝側の兵たちも怯みためらうものであったが、アーミルI世の責任の下、徹底して行われたという。水源を断ったことを確認すると、アーミルI世は再びジュバンに戻っていった。


この弾圧の目的は、サヌアの住民を皆殺しにすることではなく、住民たちに根を上げさせ再びターヒル朝への恭順を誓わせることである。アーミルI世はジュバンでサヌアからの連絡を待ちつづけたが、サヌアの住民たちはずっと耐えつづけた。そして1465年の第11月(1465年7-8月)になって待望の手紙が届いた…それはサヌアの中にいるターヒル朝支持者を名乗る者から、ターヒル朝に忠誠を誓い、サヌアを統治してほしいと懇願する内容のものだった。そして手紙を読むとアーミルI世は喜び勇んで、すぐにサヌアへと直行した……もしこのとき、彼とアリーが一緒にいて相談していたならば、未来は変わっていただろう。だがこのときアリーはアデンにいたため、彼はアリーに使いを送る暇すら惜しんで、自分の家来を少数引き連れただけで、道中で傭兵や諸部族を金で雇いながらサヌアに向かったのである。

その頃、アリーは…

アーミルI世のサヌアへの弾圧は明らかに「やりすぎ」で、失策であった。確かにサヌアの人々は元々ザイド派であったが、ひとたび恭順を誓わせた以上は「自国の民」である。殲滅させるのではなく交渉し、反乱のための武力や経済力を上手く削り、支配することが重要になる。アーミルI世はラスール朝ハドラマウト北イエメンザイド派など「外部勢力との戦い」には長けていたが、ティハーマ地方諸部族やザビードの奴隷たちなど国内の反乱分子の扱いでは明らかに、兄であるスルタン、アリーの方が長けていた。

しかしサヌア包囲戦をアリーではなくアーミルI世が率いたのには事情があった。この1464年頃、ターヒル朝の成立時から二人三脚で統治してきた兄弟の間に不和が生じていたのである。


アリーは、アーミルI世からスルタン位を譲られる1460年以前はザビードの実質的な統治者であった。その後スルタンになったため、自身はタイッズや自領のジュバンやミクラーナでの政務に追われ、ザビードはターヒル一族の次男で、弟であるアブドゥル=マリク・イブン・ターヒルに任せていた。しかし、1464年アリーは突然、彼を解任した…解任の理由は、アブドゥル=マリクがザビードで、人々がラスール朝時代の楽器を演奏することを認めたためである。アリーは非常に高潔で敬虔、かつ厳格なイスラム教義の信奉者であった。ラスール朝崩壊後に風紀が乱れきり、享楽に浸っていたザビードの人々を厳格に律して、その秩序を取り戻した彼には、規制を緩めるアブドゥル=マリクの行いがどうしても許せなかったようだ。


しかしアブドゥル=マリクはこの解任に不満を抱き、アーミルI世に自らの処遇についての不平を漏らしたのである。アリーがいくら現スルタンで長男であるとは言っても、兄弟の中でもっとも実力が傑出していたのはアーミルI世であり、元々彼がスルタンになれたのもアーミルI世の承認があったからである。このため、アリーは一族の中で孤立感を募らせ、国を棄ててマッカに旅に出ようと企てたらしい…実際には途中で引き返したものの、行方不明となったアリーを捜索するための兵が出され、後にこの騒ぎを聞きつけた諸部族が反乱を企てるきっかけになった。結局、アリーはザビードの学者たちに請われて思いとどまり、アデンに向かってそこでアーミルI世と仲直りした。しかし、この短い不和の期間のため、アーミルI世がサヌア包囲戦を指揮することになったのである。

アーミルI世の死

アーミルI世のサヌアへの進軍は明らかに拙速であった --ひょっとしたら兄アリーのように上手く反乱鎮圧が出来ない、民衆に支持されていないという焦りが、アーミルI世の中にあったのかもしれない。恭順の手紙を出した「ターヒル朝支持者」は、実はサヌアではごく少数の「信仰心が足りない不届き者」たちにすぎず、何の戦力補強にもならなかった。またアーミルI世の兵のほとんどは、途中でかき集められた傭兵や諸部族の人々であったため士気が低く、さらにサヌア到着直後、荷解きする前の隙を突かれて、ほとんどの物資を失ったため、彼らのほとんどが逃げ出してしまった。アーミルI世と彼の直属の兵たちだけは誰独り逃げ出すことなく最期まで勇猛果敢に戦ったが、その圧倒的な戦力差のために敗北し、アーミルI世は戦死を遂げた。


アーミルI世の死の知らせを受け、各地の反乱分子たちが再び活動する兆しを見せたため、アリーはその対処に追われることになる。このためサヌアの奪還は後回しとなった。サヌアではイブン・ナースィルが正式にザイド派イマームとなり、ザイド派サヌアとザマールを奪還して、彼の治世は約40年間続いた。

*1:この時点で、ムタッハーとターヒル家との同盟が解消されていたかどうかは明らかではないが、ムタッハーが独断でマンスール・ナースィルの処遇を決めたことと、彼が「ザイド派の新イマーム」になっていく関係から、ターヒル家との仲が悪くなっていたことは確かだろう。

*2:第1月ムハッラム、第7月ラジャブ、第9月ラマダーン、第11月ズー・アル=カアダの4つの月はイスラム教において聖なる月であり、争いは禁じられている。ただしアーミルI世がラスール朝のムアヤドのいるアデンを陥落させたのはラジャブであり、アーミルI世自体は軍事上必要と考えたら、必ずしもこの教えに従っていなかったようである。ターヒル朝年代記ではおそらく明言を避けてあり、アデンを陥落させたときの出来事は単に「アーミルが壁を乗り越えてアデンに入城した」とだけ書かれているようだ。

*3:1464年7月27日