ザビードとアデン

ここでラスール朝末期からターヒル朝前半において、ザビードとアデンがそれぞれどのような状況下にあったのかを整理してみたい。

ザビード

ラスール朝時代に学術・宗教の街として大いに発展したザビードであったが、1442年のラスール朝スルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールIII世の死以降、反抗的な奴隷たちの勢力が台頭して、大いに混乱した。建物は破壊され、商店は略奪されてほとんど無政府状態となっていた。ザビードの住民たちは、主義思想の異なる多くのグループの寄せ集めに近い状態になっていたが、おそらく旧支配層 -- ラスール朝時代の支配者層であった役人たちや、彼らとの結びつきが深かったイスラム学者(ウラマー)たち -- の多くは逃げ出し、残った者たちも少数勢力になっていたと考えられる。この状況が1454年頃まで続いた。


1454年、ターヒル家のアーミル、アリーの兄弟がアデンを制圧した。このとき、ラスール朝時代からアデンの代官を勤めていたジャヤーシュ・スンブリーがアデンから追放されてザビードに逃げ込んだ。しかし彼はターヒル家と内通しており、ザビードの内部で親ターヒル勢力を増やす内部工作を行った。これを受けて、ザビード内でも親ターヒル派が優勢になった頃、ターヒル家のアリーがザビードにやってくることになり、反ターヒル派の奴隷たちはザビードから逃げ出した。おそらくこれとほぼ同時期、アデンからザビードに逃れてきていたラスール朝の末裔の一人、マスウードもザビードを離れ、最終的にマッカへと逃亡している。そして、アリーがザビードの「総代」として統治するようになった。

1460年、アリーがスルタンになると、ザビードには彼に代わって代官が置かれた。しかしその当初、代官の権限はそこまで高くなく、重要な決定はアリーの承認を必要としていたようだ。1464年、アリーの弟の一人であるアブドゥル=マリクがザビードの代官になったとき、ラスール朝時代に人々が奏でていた楽器の演奏を承認したが、これを良く思わなかったアリーによって、彼は代官を解任されている。

楽器演奏の是非を巡るエピソードからも伺えるように、1454年から1474年にかけて、アリーがザビードを直接、間接的に治めていた時代、ザビードではかなり厳格にイスラムの戒律が守られていたと考えられる。アリーはまた、しばしばハディース預言者ムハンマドの言行)の講義に出席したことも記録されており、彼がラスール朝時代と同じような、ウラマーによる正統派イスラムの教えを重視していたことが判る。おそらくはその厳しい戒律で住民たちの享楽的な振る舞いを禁じ、ザビードの綱紀粛正にも利用したのであろう。またこのことは同時に、ウラマーに対して批判的なスーフィーたちの活動を制限することにつながった可能性もある。特に彼がラスール朝時代にも許されていた楽器演奏まで禁じていたことは、スーフィーたちが夜の勤行のときに歌を詠唱することとの関連を想起させる。


アリーによるザビードの統治体制が終わったのは、おそらく1474年、病気になったアリーの代わりとしてユースフがザビード総代になったときであると考えられる。彼はザビードの民衆に大変人気があり、言語学と医学に通じていたが、一方でアリーほど信心深くはなかったと評価されている。この評価から考えて、彼が民衆の支持を得た理由は、おそらく民衆から見て、アリーに比べて「話が分かる」人物であったためだろう。いくつかの民衆の娯楽は規制緩和され、あるいは黙認されたのかもしれない。また彼が医学に通じていたという点は、コーヒー利用を考える上で興味深いかもしれない。


上記をまとめると以下のようになる。

  • 1442年以前、ラスール朝時代のザビードは、多くの正統派のウラマーを擁した学術・宗教の中心だった
  • 1442年から1454年まで、ザビード無政府状態となり、奴隷たちなどがいくつものグループに分かれて混乱した
  • 1454年から1474年まで、ターヒル家のアリーによる綱紀粛正で再建され、再び正統派のウラマーが力を得た
  • 1474年、ユースフがザビード総代になって以降、宗教的厳格さを求める姿勢は、やや緩和された

アデン

ラスール朝の前半、アデンは交易都市として大いに栄えたが、1420年頃のアッ=ナースィル・アフマドの失政でほぼ完全に交易が停止する事態になり衰退した。それでも1435年頃には、ラスール朝の政策転換によって徐々に復興を遂げていった。ちょうどこの頃、ハドラマウトの主港であるシフルが、キンダ族によって侵略されたこともアデンの復権に影響していたかもしれない。


ラスール朝以前の時代から、アデンはキーシュ島の勢力などからたびたび侵攻を受けてきた歴史がある。このためアデンはラスール朝時代の潤沢な収益を元手に城壁で街を覆い、港の守りを固めてきた。その堅牢さは、ターヒル朝末期にポルトガルマムルーク朝の火器による攻撃を何度もはねのけたことからも伺い知ることができる。このためアデンは交易都市としてだけでなく、軍事的に見ても重要拠点になりえた。このことはラスール朝末期のアデンの動向、そして他ならぬアデンがラスール朝からターヒル朝への王権交代の場所になったこととも関連している。


アデンは1448年以降、ラスール朝の王位請求者の一人であったマスウードがその本拠地としていたようだ。この当時のアデンは、戦乱期の前に任命されていたジャヤーシュ・スンブリーが代官として実権を握っていた。1448年、ターヒル家との戦いに敗れたマスウードは、彼によってアデンで保護されていた。ところが1454年、マスウードはアデンを去り、その後すぐに、ザビードの奴隷たちに擁立されたラスール朝王位請求者ムアヤドがアデンに入った。このときの状況や、くわしい理由は不明である。ただアデン代官、ジャヤーシュ・スンブリーは、後にアデンから追放された振りをしてターヒル家のアリーがザビードに入る内部工作を手助けしたことからもわかるように、勝ち馬に乗って生き残ろうとするタイプの、したたかな人物だったことが伺える。マスウードがアデンを去ったすぐ後にムアヤドがアデンに入ったことで、ムアヤドはザビードとアデンというイエメンの二大都市を、少なくとも名目上は統治することになった。そう考えるとおそらく、ジャヤーシュ・スンブリーは当初はマスウードを支持していたが、彼とザビードのムアヤドとの戦いの途中でムアヤドの方を優勢と見て、マスウードをアデンから追い出し、乗り換えたのではないかとも思われる。


この1448年頃から1454年にかけて、アデンには「ラスール朝スルタン(を名乗る者)」が暮らしており、名目上「ラスール朝の首都」的な意味を持っていたことが予想される。特にムアヤドは、アデンにいた時間は短かったものの、そこで自分こそが正統なラスール朝の後継者であることをアピールしていたという記録がある (Porter, p.29)。マスウードが同様のアピールをしていたかどうかについては記録が残っていないようだが、彼がアデンにいた期間は長かったため、その可能性は十分考えられるだろう。


しかし1454年、ターヒル朝のアリー、アーミルの兄弟がアデンに入って制圧し、ムアヤドを蟄居させたことで、ラスール朝の王位請求者の全員が表舞台から姿を消して、ターヒル朝が成立した。これと同時にジャヤーシュ・スンブリーもアデンの代官の座を追われるが、彼はその後ターヒル家のために働き、彼らのザビード入りを手助けしたことで、その後はシフルの代官など各地を転々としながらも、ターヒル朝の要職の座にありついた。アリーがザビードの総代になった後は、ターヒル朝きっての忠臣、イブン・スフヤーンがアデンの代官となったが、初代スルタン、アーミルI世もタイッズやジュバンなどとともに、しばしばアデンに足を運びながら統治している。1457年にハドラマウトのアブー・ドゥジャーナーがアデン襲撃を企てたときも、最初はイブン・スフヤーンが防戦し、後からやってきたアーミルI世が彼を捕えている。ターヒル朝時代の前半は、このハドラマウトからの襲撃以外には、アデンについての重大な出来事はなかったようだ。おそらくラスール朝時代と同様な、交易・商業都市としての役割を徐々に取り戻していったのだと思われる。ただし、アリーの時代頃までのターヒル朝にとっての重要な収入源は、むしろティハーマ地方での農産物や、諸部族から徴収する税収だったようだ。


アデンの流れを見ると以下のようになる。

  • 15世紀初頭まで、ラスール朝の交易の中心として繁栄を遂げる。同時に強固な街壁で守りが固められる。
  • 1420-30年頃、アッ=ナースィル・アフマドの失政で衰退する
  • 1435年頃、ラスール朝の政策転換で復興に向かう。同じ頃、ハドラマウトの主港シフルがキンダ族に侵略される。
  • 1448年から1454年、ラスール朝王位請求者マスウードがアデンを本拠地とする
  • 1454年、マスウードがアデンを去り、別のラスール朝王位請求者ムアヤドがアデンに入り、自らの正統性をアピールする。
  • 1454年、アーミルI世とアリーがアデンに侵入、ラスール朝を滅ぼしターヒル朝が成立する。
  • 1457年、キンダ族がアデンを襲撃するが失敗。