「ソロモンの屈辱」とマルコポーロ

ソロモン朝とショアやイファトのスルタン国の友好関係は、長くは続かなかった。おそらくその最大の原因になったものは、交易路を巡る衝突である。元々キリスト教国側は、アクスム王国の時代、その首都がアクスムやクバールにあった頃から、北のダフラク諸島を介して紅海と繋がっていた。しかしソロモン朝の時代になって、アムハラやショアが王国の中心地になると、ゼイラの方が好条件な取引港になった。距離的にもダフラクよりゼイラが近くなっただけではなく、北方はザグウェ朝の残党とも言えるアガウ人や、北部で独立していたティグレ人の土地を通過せねばならなくなっていた。このため、ショアからゼイラに向かう交易路を巡って、既存勢力であるイスラム共同体との軋轢が生じだした。


また1278年には、「エチオピアで最も古いスルタン国」であるショア・スルタン国で、後継者争いから内乱が生じた。当時のマクズム家のスルタン、ディルマラーは知己の間柄であったイクノ・アムラクを頼って彼の元に身を寄せた。この結果、ショアスルタン国は名実ともにソロモン朝に臣従する、属国のような形に収まった。


1283年、ソロモン朝ではイクノ・アムラクの息子、ヤグベウ・セヨン (Yagbe'u Seyon)が即位し、「ソロモンI世」を名乗った。彼は当初、父イクノ・アムラクと同様にイスラム教徒らとの関係を保ちつつ、自らはキリスト教エチオピア司教座に就くことを考えていたようだ。しかしそれも束の間、状況は一変して彼の治世から、キリスト教徒とイスラム教徒が血で血を洗う時代に突入する。

1285年、イファト・スルタン国が、後継者争いで弱体化していたショア・スルタン国に侵攻して滅ぼし、イファトの領土とした。ソロモン朝にとってのショアは経済の中心地であるだけでなく、イクノ・アムラクが蜂起した建国の地でもある。このことから、ソロモン朝とイファト・スルタン国の対立姿勢が強まった。


そしてソロモン朝の反イスラム立場を決定づけたのが、1288年の聖地巡礼を巡る事件である。この出来事は、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で、アラビアで伝聞した「1288年の『アデン』での出来事」として書き記したことで有名である。この「アデン」はイエメンのアデンと「アダル/アデル」をマルコポーロが混同したことによると指摘され*1エチオピア東部のアダル地方での出来事だと考えられている。以下はその内容の抜粋である。

1288年、アビシニアの王(=ソロモンI世)は聖地エルサレムに巡礼に行く事を熱望した。しかしエルサレムまでの道中は危険なイスラム教徒らの領土であり、大臣ら全員が猛反対した。そこで王は、一人の立派なエチオピア司祭を呼び寄せ、彼を自分の代理人として、エルサレム巡礼に送り出した。無事にエルサレムに辿り着いた彼は、他の人々が思わず賞賛するほど立派な立ち居振る舞いで、見事に聖地での参拝を行い、王の代理人に相応しく勤め上げた。


こうして無事巡礼を終えてエルサレムから帰る途中、彼はアデン(=アダル)のイスラム教徒らに捕らえられた。人々は、この司祭にイスラム教に改宗するよう強要したが、司祭は断固として応じなかった。そこで彼らは、自分たちイスラム教徒の手によって司祭に割礼を施す*2という辱めを受けさせた後、司祭を解放した。司祭は、その帰りを心待ちにするアビシニアの王の下に帰り、それまでの一切を報告した -- 最初、エルサレムの様子などを喜んで聞いていた王であったが、イスラム教徒から司祭が屈辱を受けたことを知るや、烈火の如く怒った。自分の代理人たる司祭が受けた屈辱は、自分に与えられたも同然である。アビシニアの王は、アデン(=アダル)のスルタンに宣戦を布告した。


アデン(=アダル)のスルタンは近隣の二人のスルタンと同盟を結んで、アビシニアの軍勢を迎え撃った。しかしアビシニアの攻撃は激しく、イスラム教徒らはひとたまりもなく敗走した。そして山中にある城塞に立てこもって戦ったが、そこも攻め落とされてしまう。アビシニア軍は城塞をしばらく占拠して、中の街のすべてを蹂躙し、多くのイスラム教徒を殺した。しかしイスラム教徒らは山中に逃げ込んで狭隘な場所で戦いつづけたため、消耗戦の様相を呈してきた。そこでアビシニア王は「司祭の受けた屈辱は晴らした」として、自分たちの国に凱旋帰国した。


この事件に関係した「アデン(=アダル)」が実際にはどのあたりだったのか、また司祭を侮辱したスルタンと、それに同盟した近隣の二人のスルタンが、それぞれどこの者であったのかは、そもそものマルコポーロの記録があやふやでよくわからない。しかし、この時代であれば、イファトとゼイラにイスラム共同体があったことはまず疑いようがない。さらに山の中の要塞や狭隘路での戦闘があったこと、「アデン」がアダルの聞き違いである可能性を考慮すると、もう一つの(あるいは実際に戦闘の中心になった)国が、アダルもしくはハラーに近い場所に作られていたイスラム共同体であった可能性は考えられるのではないだろうか。以前からソロモン朝との結びつきがあったイファトやゼイラに対して、もう少し新しく、そして強硬なイスラム教徒らによる共同体がアダル近傍に形成されており、そこがソロモン朝とトラブルを起こした可能性を指摘しておきたい…もちろん、真偽については判らないが。


ともあれ、この事件によってソロモン朝とイスラム教徒らの対立が決定的になったことは確かだ。そして、それは次の時代以降にもずっと引き継がれて行く。

*1:もしイエメンのアデンのことであれば、ソロモン朝の軍勢が紅海を渡った記録が残っているはずであり、またイエメン側でも記録が残っているはずであるが、どちらの記録も存在しない。

*2:エチオピア正教では、ユダヤ教と同様、割礼の習慣がある。