はじまりの物語 (9)
ここから、15世紀のイエメンでのコーヒーの歴史をちょっとずつ、ひもといていきます。
- (15世紀以前)
- 9世紀- エチオピアで、キリスト教徒(アクスム王国)とイスラム教徒(アラブ商人)が内陸部に進出。西南部エチオピア人の奴隷取引が始まる
- 925 ペルシャのアル・ラーズィー『医学集成』に「ブン/ブンクム」が記載される
- 1010-1020頃 ペルシャでイブン・スィーナー『医学典範』にブンクムが記載される
- 1021 イエメンのザビードで、エチオピア人奴隷出身者たち(=アビード)がナジャーフ朝を興す(-1159)
- 13世紀 ウマル・ワラシュマがマッカ(メッカ)からエチオピアに渡り、イファト・スルタン国を興す
- 13世紀後半 (1258-) シャイフ・ウマル(=シェーク・オマール)のコーヒー発見伝説(ド・サッシー『アラブ文選』脚注96、トルコの地理学者の文献から引用)
- 1316 エチオピア皇帝アムダ・セヨンが西南部のダモトやハドヤに侵攻
- 1328頃 アムダ・セヨンがイファト・スルタン国に侵攻、ワラシュマ家がゼイラへ向け逃亡
- (1330頃 イブン・バットゥータがイエメンに旅行/イブン・バットゥータ『大旅行記』)
- 1410 (1403とも) エチオピアのゼイラでワラシュマ家のサダーダッディーンII世が死亡し、彼の子らがイエメンに逃亡
- 1418 アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーが死亡。イエメンの人々に「カフワ」を広めたと言われる(アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』、パリ王立図書館版、アル=マッキー『コーヒーの勝利』から引用)
- 1420-30頃 イエメンのアデンで交易が一時的に衰退
- 1435頃- アデンの交易が復興に向かう
- 1435頃 ハドラマウトの主港シフルがキンダ族に侵略される
- 1442 ラスール朝最後のスルタンが死去し、後継者争いが起きる
- 15世紀後半? ジャマールッディーン・アッ=ザブハーニー(=ゲマルディン)がアデンでコーヒーの利用を合法と認める
- → 1454頃(?注) ザブハーニーがアラビア半島でコーヒーの飲用を是認(ユーカース『オール・アバウト・コーヒー』)
- → 15世紀半ば? ザブハーニーとアル=ハドラミーが公衆の面前でコーヒーを飲んだ記録(アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』、パリ王立図書館版、イブン・アブドゥル=ガッファールからの引用)
- 1454 ラスール朝が滅亡し、ターヒル朝が興る
- 15世紀後半? コーヒー利用がイエメンからマッカに伝わる
- 1470 ザブハーニーが死亡
- 1474 ユースフがザビード総代になる
- 1478 ユースフが政争に敗れ、マッカに逃れる
- 1490頃 マムルーク朝やマッカの使節団がイエメンを来訪
- (16世紀以降)
- 16世紀初頭 ファフルッディーン・アル=マッキー『コーヒーの勝利』。「20年以上前からマッカでキシルの利用が見られたが、それから作るカフワは15世紀最後の10年まで伝わらなかった」(アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』)
- 1500-1510頃 コーヒー飲用がカイロに伝わる(同上)
- 1511 マッカの長官ハイール・ベイが大規模なコーヒー弾圧(マッカ事件)
- 1517 ターヒル朝がマムルーク朝に滅ぼされ、イエメンが分割される*1
- 1517 オスマン帝国がエジプト・マムルーク朝を滅ぼす
- 1530頃 イブン・アブドゥル=ガッファールのコーヒーに関する文書。「90歳を超えるザビードの長老の一人が、若い頃、ザブハーニーがコーヒーを公衆の面前で飲むのを見たと証言」(アブドゥル=カーディル)
- 1538 オスマン帝国がイエメン全域を支配
- 1557 アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』 エスコリアル修道院版(初版?)が書かれる
- 1587 アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』 パリ王立図書館版(第二版?)が書かれる