二人の王子と二人の司祭

アクスム滅亡の最初のきっかけになったのは、後継者争いによる内紛である。『アレクサンドリア総主教の歴史』には、933-942年のコスマス総主教の時代、アビシニア(アクスム王国)の後継者を巡って生じた、二人の王子と二人の司祭にまつわる物語が記録されている(https://sites.google.com/site/demontortoise2000/hist6-htm p.118-121)。


あるとき、アレクサンドリアのコスマス総主教のもとに、アビシニアの国王 -- おそらくデグナ・ジャン -- から、新しいエチオピア司教を派遣してほしいという嘆願書が届いた。コスマス総主教は、修道士の中からペーターという名の人物を適任者として選び、司教に任じて国王のもとに送った。ペーター司教は非常に優れた人物で、国王は大いに喜び、彼に多大な信頼を寄せた。ほどなく(おそらく既に高齢だった)国王が死の床についたとき、ペーター司教を枕元に呼び寄せて、頼んだという。「私には二人の王子がある。あなた(ペーター)にこの国(アビシニア)と、二人の王子の将来を託したい。二人のうち、あなたがより優れていると思う方に、この王冠を授けて欲しい」。そう言って老王はペーター司教に王冠を委ねて、この世を去った。

ペーター司教は王のいいつけを守って、思慮深く二人の王子を比較した。どちらもまだ年若いながら立派な王となるだろう資質を持っているようだった。しかし、弟王子の方が兄王子よりも優れていると見極めたペーター司教は弟王子の元を訪れ、彼に戴冠して次の王としたのであった。


新王の即位後ほどなくして、メナスとヴィクターという、二人連れの修道僧がアクスムの王宮にやってきた。彼らはアビシニアのあちこちを転々とする流浪の旅の末にアクスムに辿りつき、ペーター司教のもとを訪れた。彼らはペーター司教に金品を要求し、寄付を寄越すようにと言ったが、司教はこれを拒否し、彼ら二人を王宮から追い出した。

その夜、追い出された二人の修道僧のもとに悪魔サタンがあらわれ、見た目の豪華な司祭の法衣とその従者の服を一着ずつ彼らに渡して、何かを耳打ちした -- 翌朝、彼らは悪魔に言われた通りに、ニセの手紙を書き上げた。そして、どっちがどっちの服を着るかでもめたものの、修道僧メナスが司祭の服を、ヴィクターが従者の服を身にまとって、王位継承に破れた兄王子のところを訪れたのである。


この頃の兄王子は、彼に長年使えてきた人々が一人また一人と去り、身の回りの世話をするわずかな家来が残っただけの、寂しい隠居生活を送っていた。そこへ立派な身なりのニセ司祭が、これまた立派な身なりのニセ従者を引き連れて訪れ、これまたいかにも立派なニセ手紙を彼に渡した -- ニセ手紙の差し出し人にはアレクサンドリア総主教コスマスの名があり、こう書かれていた。

「アビシニアからの遣いの知らせを受けて、私(コスマス)は、ペーターという男がエチオピア司教の座に収まっていることを知った。しかしその男は、全くのニセ者である。私は彼を任命していないし、もし私からの信書を携えていたとしても、それは彼が偽造したニセ手紙だ。この手紙を持たせたメナスこそが、本物の司教であるので、この手紙を受け取ったらペーターを追放し、メナスを司教の座につけよ。またペーターは弟の王子に戴冠したようだが、それも不正な選択である。兄の王子の方が優れた人物であり、王冠に相応しい」


このニセ手紙を読んだ兄王子は大いに喜び、また同時にペーターと弟王子に対して大いに憤った。直ちに近隣の兵士をかき集めると、彼らの前でこのニセ手紙を読み上げた。こうして兄王子は、弟王子と争うための「正当な理由」を手に入れたのである。軍もまた兄王子に味方し、弟王子を打ち負かした。その結果、弟王子は捕らえられて流刑にされ、ペーター司教もまたその弟子らとともに王宮から追放されて、代わりにニセ司祭メナスがエチオピア司教の座につき、兄王子に戴冠したのである。


しかしニセ司祭らの企てはすぐに露見した。まず数日後、従者役になっていたヴィクターがメナスと諍いを起こし、司祭の部屋を占拠した挙げ句、一切合切の宝物を持って出奔した。彼はその後イスラム教に改宗し、最終的にはその財産のすべてを失ったという。

一方、残ったメナスは、アレクサンドリア総主教コスマスに宛てて、貢ぎ物と一緒に今回の顛末を書いた手紙を送り、自分がエチオピア司教の座に就いたので、追認するように要請した。この知らせを受けたコスマスは大いに嘆き悲しんで貢ぎ物を突き返し、一通の手紙を送った……それはメナスを追認するものではなく、破門状であった*1。このことはすぐに新王の耳にも届いた。このときに彼は初めて自分が騙されていたことに気付き、ニセ司祭メナスを死刑とし、エチオピア司教座は空席になった。新王はコスマスに許しを請い、代わりの司教を任命して貰えるよう願ったが、コスマス総主教の嘆きは深く、彼が総主教座にある間、後任のエチオピア司教を任命することはなかった。彼の後を継いで総主教になった司祭も、彼に倣ってエチオピア司教を任命せず、結局、次のエチオピア司教が任命されたのは、約70年後、コスマスの5代後のフィロテウス総主教の時代になってからである。


新王は、追放した司祭ペーターを再び呼び戻すため、国中におふれを出した…が、時既に遅く、ペーターは放浪中に命を落としていた。ただしペーターとともに追放された、弟子の修道僧の一人が生き延びており、囚えられて新王の前に引っ立てられてきた。まだ年若いその修道士は、エジプトに帰してもらえるよう王に懇願したが、王はそれを許さず、師の跡を継いで司教の座に就くよう彼に命じた。彼はまた「一度、エジプトのアレクサンドリアに戻って、総主教から正式にエチオピア司教に任命してもらってから、再び戻ってきます」と王に願い出たが、王はそれも許さず*2、総主教による正式な任命を受けないまま、ペーターの弟子に司祭の服を着せて、エチオピア司教の座に据えたのであった。その後この弟子は約70年、フィロテウス総主教の時代になるまで生き続け、非常に年老いてもなお、エチオピア司教の役を勤め続けた。しかし、70年に及ぶ正統な司教の不在は、エチオピアキリスト教徒を激減させることになったと伝えられる。

その後、エチオピアの伝承によれば、本来の正統な司教を失ったことでアクスム王国は神の祝福を失い、さまざまな災害に見舞われたという。さらに先住民の女王が率いる軍勢が国を襲って、国は乱れ、兄王は亡くなった。その後、流刑にされていた弟王が跡を継いだが、その治世も決して長くなかったという。一説によれば、弟王の名はディル・ナオドで、彼は再びショア方面に進軍して失地を回復したものの、アガウ人の将軍、マララ・テクレ・ハイマノトに弑された。マララは王の息子を追放し、王の娘を娶って、自らが新たな王になることで、メネリクI世から続いたアクスムの王権を簒奪した…彼がザグウェ朝の始祖である。ソロモンの家系は、神に見放されてから数えて333年間の苦難の時代を迎え、そして1270年にイムノ・アムラクがようやくソロモン王朝を再興させたのだ…と言うのがエチオピアの伝承の、もっとも典型的なお話の一つである。

*1:カノッサの屈辱」のエピソードを挙げるまでもなく、当時のキリスト教社会における破門は絶大な意味を持ち、単にその相手をキリスト教徒として認めないだけでなく、周りのキリスト教徒も彼と絶縁し、キリスト教徒として埋葬することも禁じる社会的制裁である。したがって新王は、破門された司教と絶縁する以外になく、また破門された司教から戴冠されたということは非常に不名誉なことであったため、どうしても新しい別の司教から戴冠してもらいなおす必要があったと考えられる。

*2:ペーターの弟子がそのまま逃げ出すことをおそれたことと、総主教が彼を認めないかもしれないことをおそれたことの、二つの理由があったのだろう