土俵際のアクスム

7-8世紀の、イスラム教の急激な台頭は、たちまちのうちにアラビア半島およびその周辺の一帯を飲み込んだ。預言者ムハンマドの死後、初代正統カリフ、すなわち「代理人」としてその遺志を継いだアブー=バクルアラビア半島のアラブ人を統一する(〜634年)。その後を継いで、「代理人代理人」を名乗った2代目正統カリフウマルは、長年の対立で疲弊していた二つの大国、東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアに攻め入った。この戦いで、7世紀前半には既にエジプト、シリア、ペルシアがアラブのイスラム教徒の領地になった。東ローマ帝国は北部のアナトリア半島に残ったが、サーサーン朝ペルシアは滅亡した。


アクスム王国キリスト教徒らとつながりが深かった、エジプトのアレクサンドリアも、このとき以降イスラム世界に取り込まれた*1。しかし、アクスム王国はこの侵攻を免れた。前回述べたように、アクスム王国は、最初のイスラム教徒らがマッカで迫害を受けたときに彼らを匿った「恩人の国」だったことも影響していただろうと思われる。こうしてアクスムイスラムの脅威を乗り越えたかのように見えたが、それは別の形でアクスムを追いつめていくことになる。


たった数十年ほどのうちに、紅海を取り巻くすべての地域は、アクスムを除くほとんどがイスラムに属し、エチオピアキリスト教徒らは完全に孤立してしまった。旧アクスム領の沿岸部には、イスラム教徒であるアラブ人たちが交易に訪れ、紅海交易はアクスムの手を離れて、彼らが掌握するようになった。特に、イスラム帝国が分割されてエジプトにファーティマ朝が成立した10世紀以降、紅海は再び*2交易でにぎわうようになり、アラブ人たちがさかんに行き来するようになっていた。

また彼らはやがて、アクスム領内に定住するようになり、その中でイスラム共同体が作られていった。アクスムの住人の中から、最初のうちは主に身分の低い奴隷や従者などから、イスラムに改宗する者も現れ、それとともにイスラム教徒らの社会的な影響力も増加していった。こうして、侵攻によって一気に壊滅することは免れたものの、イスラムの台頭によって徐々に経済力、社会的影響力、キリスト教による求心力などが徐々に削られていき、アクスムの国力は徐々に低下していった。アクスムの勢力圏は、沿岸部から押し出されていき、首都アクスム周辺の、エチオピア北部の内陸の高地に追いつめられていったのである。


しかし、それでもやはり、アクスムは当時のエチオピアキリスト教王国の中心であり、その王座にあるアクスム国王は「ネジャシ Nejashi -- 諸侯の王」でありつづけた。

元々アクスム王国は、大国の例に漏れず、周辺の小国を併合しながら拡大していった国である。前回説明したイエメン侵攻時にも見られたように、侵攻した領域には領主ないし代官が置かれ、アクスム国王がその所領を安堵する代わりに、領主から徴税、あるいは朝貢を受けていた*3。この時代、北方(Beja)や西方(Walqayt)の領域などは独立を果たしていたが、周辺の領主は依然、アクスム国王に臣従していたようだ。ソロモン王から続く血筋と、エチオピア司教を介したキリスト教徒のリーダー的役割、そして衰えたとはいえど周辺の領主よりも豊かな経済力と軍事力 -- これら三拍子そろったアクスム国王が、周辺の領主と一線を画し、彼らからの朝貢を受ける存在であったことには、この頃の時代になっても変わりはなかったようだ。日本の歴史で(思い切りおおざっぱに、時代ごとの違いは大目に見て)喩えるなら、天皇家と将軍家の性格が混ざったような(血統、宗教リーダー、経済軍事力)、そんな立ち位置に近かったのかもしれない。


またエルサレムアレクサンドリアといったキリスト教の要地がイスラム世界に飲み込まれていく中で、アクスム王国は、紅海沿岸に最後に残ったキリスト教国家として、エチオピアのみならずエジプトやシリアのキリスト教徒らにとっての「希望」を背負うことになった。そうして、押し寄せるイスラム勢力に土俵際まで追いつめられながら、まさに徳俵に足が掛かった状態で踏みとどまりつづけたアクスムは、9世紀初め頃から「土俵の外側」の世界、内陸の山岳地帯へと、自分たちの王国とキリスト教徒らの新天地を求めて動き始めた。これが、内陸の山岳地帯に孤立する -- イギリスの歴史家、エドワード・ギボンの言葉を借りれば「彼らの宗教の敵に包囲され、千年近く世界に忘れられ眠りつづけた」 --キリスト教エチオピアへと繋がっていくのである。

*1:ただし、東ローマ帝国キリスト教徒(カルケドン派)らと比べると、エジプトのキリスト教徒ら(非カルケドン派…いわゆる単性論派…のコプト正教会)に対して、イスラム社会は比較的寛容で、しばしば教会に対する介入、時として迫害はあったものの、信仰自体は許容されていたそうだ。実際、アレクサンドリア総主教庁が、この時代以降も機能していたことは上述の記録から判る。

*2:インド洋と地中海地域を結ぶ「玄関口」は、ペルシア湾と紅海の二つがあった。ローマ帝国時代は、ペルシア湾側にあったサーサーン朝ペルシアが障害になっていたため、紅海は重要な交易路になっていたが、イスラム帝国期には地中海とペルシア湾が一つの大国で結ばれたため、紅海交易の重要性は低下していた。しかし909年、ファーティマ朝の建国によって、再びペルシア湾側のアッバース朝と分離したことにより、紅海交易の重要性は再び拡大していった。

*3:このためイエメンのように、代官が反乱軍に斃されて新たな政権が興っても、そこが属国として朝貢すればアクスムにとってはさしたる問題にならなかったのだと思われる。