「簒奪者の王朝」

ショアの女王の侵攻の後、アクスム王国の系譜に「とどめを刺した」のが、ザグウェ朝であることについては、おそらく異論は出ないだろうと思われる。

1270年にソロモン朝が復興して以降、ザグウェ朝は「アクスムの正統な後継」を名乗る彼らによって、「不正に王権を奪った簒奪者の王朝」と位置づけられ、ザグウェの神官たちが残した史料の多くが焚書、破棄されたという。ヨーロッパの研究者らの多くも、ソロモン朝側の記録に立脚して、同様に「簒奪者」とする立場が多かった。ただし近年のエチオピア政権の意向の変化と、世界遺産である「ラリベラの岩窟教会群」など、ザグウェ朝時代のキリスト教遺跡への注目が集まっていることから、ザグウェ朝に対する視線は変わってきつつあるようだが。


「ザグウェ Zagwe」とは「アガウ Agaw の」という意味の言葉であり、クシ系アガウ人たちによって設立された新たな王朝である。9-10世紀頃、アガウ人たちはアクスム南部の山岳地方を中心とした広い範囲に多数暮らしていた。元々は半農半牧民であった彼らは、好戦的で勇猛な兵士であり、ラスタの山麓には彼らの要塞があった。アクスム王国が、彼らの領域を迂回してアムハラへと南進したのもそのためだったと言われている。

アクスム王国の基盤がアムハラやクバールなど南方に移行すると、新しい領土や首都では新しい人材が必要となった。その人材の大きな供給源になったのが、元々この周辺に暮らしていたアガウ人たちである。勇猛で知られた彼らが、特に軍の兵士として多く登用されただろうことは想像に難くない。そして、南への軍事侵攻、継承争いの内紛、南方からの先住民の侵攻などが、いずれも軍部の権限を増大させる方向に働いていったと考えられる。

軍部の権限拡大は、先述した『アレクサンドリア総主教の歴史』中の二人の王子のエピソードからも推測できる。兄王子がエチオピア司教ペーターと弟王子に対して反乱をおこしたとき、彼は「近隣の兵士を集めて呼びかけた」と記録されている。また、このとき兄王子の周りには数名の側近しかいなかったという記載からは、彼がある種の隠遁ないし幽閉生活を送っていたことを伺わせる。エチオピア北部では、特有の「アンバ」と呼ばれる山地が流刑地*1として用いられており、山岳に暮らすアガウ人たちとの繋がりが連想される。


あるいはそもそも、兄王子と弟王子の対立自体が、アクスム王宮内での旧勢力と、急増するアガウ人たちの新勢力との政権争いの上にあり、そこに王の後継者たちとエチオピア司教が巻き込まれた可能性も考えられるだろう。


ザグウェ朝がいつから始まったものかについては、上述したアクスム王国の滅亡時の二つの仮説にしたがって、 (A)10世紀半ば頃、(B)1137年頃、という二つの仮説がある。ただし、いずれもザグウェ朝の開祖は、アガウ人のマララ・テクレ・ハイマノトであったと伝えている。彼はアクスム王国につかえる将軍であり、王を殺してその娘と無理矢理結婚したとか、そのとき同時に王の息子を放逐したとか、いくつか伝承のバリエーションがあるが、共通しているのは、王の娘と結婚して、現在のラリベラに近いアデファの地に都を移し、そこで自らが王位についた、という点である。

「それの何が悪いの?」と思われるかもしれないが、例えば、今の日本に置き換えて「愛子様と結婚した一般人が、天皇を名乗り出した」と喩えると(実現可能性とか、是非はともかくとして)大揉めになることは容易に想像がつくと思う。ましてや、当時のアクスム王家には男系継承のしきたりがあり、イスラエル王国の古い伝統に従って、その王族は一夫多妻であったのだから、問題はさらに大きいだろう。真偽のほどは今となっては判らないが、事実であればそれは「簒奪」と言われても仕方ないように思う。


ザグウェ王朝が「簒奪」したのは、単なる王座だけではなかった。アクスム王家はイスラエル王国から脈々と受け継がれてきた「血統」であり、また同時にアクスムおよび周辺国の「キリスト教徒らのリーダー」としての役割も担ってきた。ある意味、山岳部族からの「ぽっと出」にすぎないザグウェの王族にとっては、分不相応だという見方が当時から強かったのだろう。ザグウェの王らはそういった批判を打ち消すために、エジプトやエルサレムに積極的に使いを送って、自ら「キリスト教のもっとも熱心な信者」であることを内外にアピールし*2、さらにはイスラムの手の届かないエチオピアの山中に「エルサレムから禅譲された、第二のイスラエルを築く」ことを至上命題として掲げるようになったようだ。

古代イスラエルのソロモン王とシバの女王の血統」を名乗ったアクスム王国に対して、ザグウェ朝は「キリストから託された、エルサレムの精神的後継者」と言う物語を作り上げようとした。それはイスラム世界に圧倒されつつあった、キリスト教徒らにとっての希望でもあった*3



この動きは、13世紀初頭に在位したゲブレ・メスケル・ラリベラ王の治世に顕著であった。ラリベラ王の伝記によれば、彼は王子の頃に奇跡的にエルサレムに導かれ、そこでキリストが彼の前に現れて聖地巡礼の道案内をしたという。キリストは、彼が帰国後に王になる運命にあることを預言し、エチオピアに第二のエルサレムを築くことを命じたと言われる。預言通り王となったラリベラは、「神の使いたち」と呼ばれた外国人技術者らの力を借りて、首都アデファからほど近い、当時ロハと呼ばれていた山の中の地下に多くの教会群を建造した。そこにはエルサレムの「ヨルダン川」や、アダムの墓所といわれる「カルバリ」、イエス墓所とする「ゴルゴダの教会」など、エルサレムの地形が人工的再現され、この地はやがて王と同じ「ラリベラ」という名前で呼ばれるようになった -- その遺構が、世界遺産ラリベラの岩窟教会群」である。ザグウェの王はまたキリスト教美術や文学の庇護者として、文化面でも周辺への影響力を示すようになった。またそれだけでなく軍事面でも、13世紀前半には、西部のタナ湖方面や、ショアとの境界西部のゴジャムなどへの遠征を行っていた記録がある。


こうして13世紀には、ザグウェ朝はラスタ山中のアデファに首都を構え、ラスタはもちろん、アムハラのキリスト教徒らの中心となり、北のティグレ地方や西のタナ湖周辺やゴジャムも、ザグウェ朝の影響下になっていたという。ザグウェ朝が、名実共にキリスト教エチオピアの中心的存在になり、かつてのアクスムの王族に代わって、その地位を「簒奪」することに成功していたことが伺える。

*1:(弟王子と目される)ディル・ナオドにまつわるエピソードの一つに、彼が赤ん坊のとき、Gudit女王によってデブレ・ダモと呼ばれる場所に幽閉されていた、というものがあるのだが、ここもアンバの一つであった。

*2:例えば、第三代ザグウェ王イェムレハネ・クレストスは、エジプトのスルタンに金品を送ってその代わりに建材を送ってもらい、自らの名を冠した「イェムレハネ・クレストス教会」という美麗な教会を建造したと伝えられる(11-12世紀頃)。また1189年には、当時エルサレムを支配していたアイユーブ朝サラーフッディーンが、エルサレムにあった教会をエチオピア人に与えたという。

*3:ただし、エチオピアの山中に作られた「新たなエルサレム」は、結果的には、エルサレムの代わりとして他地域のキリスト教徒らに認められることにはならなかった。むしろエチオピアキリスト教は、ラリベラの山中に閉じこもり、自らをエルサレムの王族や神官たちと同一視していく過程で、古代イスラエルの風習に頑にこだわり、閉鎖的で独特な世界観を形作っていくようになったようだ。マリア信仰への強化など、ある種、日本での隠れキリシタン信仰とも共通する特徴も見られるようだ。