9-13世紀のコーヒーの可能性

キリが良いところまで続けようと思ったら、随分と長くなってしまったが、この時代までのコーヒーの可能性について考えてみたい。


この期間には大きな出来事が二つある。一つは、キリスト教イスラム教徒双方が、西南部を含めたエチオピア内陸部との接触を始めた記録があること、もう一つはペルシアにおいて書かれた、アル・ラーズィー、イブン・スィーナーの両著にコーヒーと思われる記述が初めて現れたことである。

コーヒー原産地との邂逅

エチオピア北部のキリスト教徒らが、コーヒーには関心を示さなかったであろうことは前回までに述べた。しかし、この時代にキリスト教アクスム王国が、いち早くエチオピア西南部に到達していたことには注目の余地があるだろう。


9世紀以降の南下と、9世紀後半〜10世紀初頭のデグナ・ジャンによる南征によって、アクスム王国はショア台地から、南西のエナリアまで到達した。このうちショア台地は標高が高く(2000m以上)コーヒーの自生はあまり見られないが、エナリアはカファ地方に属するアラビカ種の自生地の一つである。1917年にスパレッタが初めてエチオピア野生種の分類を行ったときに、既に「エナリア」の名前があったこと、シルヴァインらによる1950年代のサーベイランスでも「S2-エナリア」というグループが提唱されたこと(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100525)からも、この地が主要なコーヒー自生地であったことが伺える。デグナ・ジャンは遠征の結果、この地で金を見いだすとともに、現地の先住民を多数捕らえて、奴隷として持ち帰っている。

また、アクスム王国に反攻したと言われる「ショアの女王」の出身がダモトやワジュだったと仮定した場合も同じような感じだ。ダモト(イルガレム)はカファに次いでアラビカの野生種が数多く分離された場所であり、ワジュもエナリアと同様、カファ地方に属するコーヒー自生地である。ショアの女王との戦いで捕らえられた先住民が奴隷とされた可能性は高い。


この当時、アクスム王国は北部のダフラク諸島を経由して、アラビア半島のアラブ人たちに奴隷を輸出していた記録が残っている。紅海対岸のイエメンはその主要な輸出先の一つであり、ダフラク諸島のスルタンとの繋がりも強く、そもそもダフラク諸島の商人の多くがイエメン出身だったと言われている。10世紀中頃には、イエメンのジヤード朝の王子に対して、ダフラクのスルタンから1000人の奴隷が貢ぎ物の一部として贈られた記録がある。11-12世紀頃には、イエメンではエチオピア出身の奴隷がジヤード朝に叛旗を翻し、自分たちの王朝であるナジャーフ朝を興すほどだった。12世紀のウラーマーの記録によれば、イエメン沿岸部のティハマ地方では、アラブ人たちが黒人奴隷の女に生ませた子どもが増え、奴隷か自由人かを問わず「すべての人の肌が黒い」と記されている。それほど多くのエチオピア人が奴隷としてイエメンに渡ったことが判る。彼らイエメンのエチオピア人奴隷の中に、エナリアなど西南部の者がいたことは十分に考えられるだろう。

とはいえ、彼らが奴隷として売られてくる道中に、コーヒー豆や苗木ほか、コーヒーにまつわる何かを隠し持ちつづけたというのは、ちょっとばかり考えにくいかも知れない。ただ、彼らが「コーヒーを利用するという知識」をイエメンや、ペルシアなどのイスラム世界の他の地域に伝えた可能性はあるかもしれない。


一方、イスラム教徒のアラブ商人らが最初に行き着いた、コーヒーの可能性のある土地はハラーの山地である。ただし、現在のハラーに当たる地域についての記録は意外に新しいというか、少なくともこの当時に先住民がいたという記録が明確には見られない。イスラム教徒らもまた10世紀にはショア台地まで到達していた。「ショアの女王」がショアを統治していた10世紀頃には、彼女の出身部族であるダモトないしワジュの文化や風習が、ショアに伝えられていた可能性は十分考えられる。

アラブの商人らもまた、先住民の一部を奴隷としてゼイラから輸出していたと考えられるが、キリスト教徒らとの大きな違いは、彼らが「商人」として、先住民の社会に溶け込んでいたということだ。商人である彼らはまた、自分の商売につながる可能性のあるものに対して(異教徒の文化風習に興味を持たなかったキリスト教徒に比べると)興味を示した可能性が高かったことが予想される…16-17世紀にモカを訪れたヨーロッパ人がコーヒーに関心を示したように。


残念ながら状況証拠の域を超えるものではないが、以上から、10世紀頃のショアでイスラム教徒らが「コーヒーの利用」に触れる可能性があったことを提唱しておきたい……それはあくまで、現地の先住民らの利用法に近かったものと思われるが、後世のイスラム教徒らの手によって、現在の形の「コーヒー」が生まれる、そのきっかけにはなり得ただろう。

イスラム医学との邂逅

コーヒーについて最初に記述したと言われているのは、ペルシアの医学者であり、科学者、哲学者であった、アル・ラーズィー(ラテン語名:ラーゼス)である。彼は9世紀後半から10世紀前半にかけて活躍した人物で、925年に亡くなった。生前から多くの書を著したが、彼の死後にまとめられた『(医学)集成』(包含の書、Continens, Al-Hawi)という全集に、コーヒーのことを意味する「ブン Bunn」「ブンクム/ブンカム Bunchum」の説明があったと「言われている」。しかし、この興味深い『医学集成』の中身は現在、既に散逸しており、内容を確認することができないと言われている。

過去にこの部分を引用したと思われる記述によれば、『医学集成』には、コーヒー豆に当たる"Bunn"と、その煮汁である"Bunchum"の記載があったという。"Bunn"の語源は、英語の"bean"などと同じで、「豆/豆のかたちをしたもの」を意味する。実際"Bunn"は、現在もアラビア語や、エチオピア現地語のいくつかで「コーヒー(豆)」を意味する言葉として用いられているため、これがコーヒーに関する記載であったという、有力な根拠に挙げられている。記述からは、焙煎していない生の豆を用い、煮汁を取る方式であったことと、薬用として用いていたことが読み取れる。これが本当にコーヒーと同じものだったかどうかについては、原書が失われた今では確認のしようがない。しかし、現在我々が嗜好品として飲用する「コーヒー」とは、異なるタイプの利用法であったとは言えるだろう。


一方、ペルシアの医学者、科学者であった、イブン・スィーナー(ラテン語名:アヴィセンナ)が1010年頃に書いた『医学典範』(The Canon of Medicine, Al-Qanun fi al-Tibb)は現在でも残っており、"Book II: Materia Medica"に"Bunchum (buncho/bunch)"として、コーヒー豆らしきもの*1についての記載が見られる。これが現存する中で最古の「コーヒー」に関する記録だと言われている。

『医学典範』については、古アラビア語で書かれた原書がラテン語に訳され、そのラテン語訳の一部が近代西欧語にも訳されているが、ラテン語以外の訳本では、「ブンカム」についての記載がある"Book II: Materia Medica"は抄訳のみである。ただし近年は、Ulla Heise "Kaffee und Kaffeehaus"(1987、日本未訳)、 Bennett A. Weinberg "The World of Caffeine"(2001, 『カフェイン大全』 asin:4896948661)で、当該部分が翻訳されている。

Bunchum quid est? Est res delatade Iamen. Quidam autem dixerunt, quod est ex racidibus anigailen...
(ブンカムとは何ぞや。それはイエメンからもたらされる。しかし、ある者はアニゲイレンの根から得られるという…)

As to choice thereof, that of a lemon color, light, of a good smell is the best; the white and the heavy is naught. It is hot and dry in the first degree, and, according the others, cold in the first degree. It fortifies the members, clean the skin, and dries up the humidities that are under it, and gives an excellent smells to all the body.*2

(選ぶ際は、レモン色で、軽く、良い匂いがするものが最良である。白くて重いものは粗悪である。その性状は第一に、熱にして乾である。他の者によれば第一に冷である。それは四肢を強化し、肌を清め、肌の下の湿気を乾かす、そして全身に素晴らしい香りを与える)


16世紀ドイツのレオンハルト・ラウヴォルフはアラビア半島の旅行中でコーヒーと出会い、これがアル・ラーズィーやイブン・スィーナーの言った「ブン/ブンカム」だとしてヨーロッパに紹介した。しかし上述の記述から「アニゲイレン」という名の未知の植物の根ではないか、あるいは、色や重さの記述から本当にコーヒーのことか疑わしいとする反論も相次ぎ、本当にコーヒーのことなのかどうかは論争が続けられてきた。

確かに、これがコーヒー豆ならば、根っこを取り違えるのはちょっと考えにくいし、これが乾燥した生豆かパーチメントのことを指しているのであれば「黄色が良品/白が粗悪品」はともかくとして(白=死に豆?)、「軽いのが良品/重いのが粗悪品」と言われると、今のコーヒー豆を見た時の感覚からすると、ちょっと首を傾げたくなる部分があるのは確かだ。


この『医学典範 The Canon of Medicine』のラテン語版、実は現在は、ネット上で見ることが可能だ。"Bunchum (buncho/bunch)"に関する当該の記述はp.270( http://books.google.co.jp/books?id=hoBEAAAAcAAJ&pg=PA270 )のcap.91に認められる。割と短めなので、とりあえず下記に全文を引用する。

De {buncho} Cap. 91


BUNCHUM quid est? Est res delata de Iamé. Quidam autem dixerunt, quòd est ex radicibus anigailen, quum {mouetur} & cadit.

Electio. Melius est citrinum & leue boni odoris, Album uerò & graue est malum.

Natura. Est calidum & siccum in primo, secundum quosdam est frigidum in primo.

Operationes & proprietates. Cófortat membra.

Decoratio. Mundificat cutem & exficcat humiditates, quz funt fub ea: & facit odorem corporis bonum: & abscindit odorem psilotri.

Membra nutrimenti. Est bonum Stomacho.

正直、Google翻訳の助けを借りながらがやっとで、上手く意味を取るのが難しいが、大体はワインバーグらの訳は当を得ているように思われる。ただし問題の「根っこ」の下りには、解釈に苦しむ修飾的な一節[when he (=anigeilen?) moves and falls]がついているし、選別(Electio)のところの「軽い/重い」も香りについて記述したもののようにも読める。"anigailen"が特定の植物なのか、アラビア語から訳する際の問題なのかもわからない。揉めるのは当然かもしれない。


このチャプターとは別に、もう一箇所『医学典範』中には、興味深い一節がある。それはp.338 (Cap. 454)の"MYRTUS"の部分だ( http://books.google.co.jp/books?id=hoBEAAAAcAAJ&pg=PA338 )。これは地中海地方で、良く知られた薬用植物であるマートル(ミルトス、ミルテ、ギンバイカ)に関する記載なのだが、この中に"ipsius bunchum / ipsius quidem bunchum"…「その(=マートルの)bunchum / その真のbunchum」という記述が2箇所見られる。この部分の記述も途中欠落があるようで、意味が上手く取りづらいのだが、少なくとも、このマートルという薬木にも「マートルのbunchum」と呼ばれるものがあり、それが薬用として用いられていたことが示唆される。

では、それは何なのか。マートルの主な薬用部位は、実と葉と、そして種子である。このリンク http://www2q.biglobe.ne.jp/~sakai/myrtle.html は、マートルを園芸で栽培している方が書かれたブログであるが、ページの中程(追記6、7)あたりに、マートルの果実や種子の写真が載っている。さすがに「そっくり」とまでは行かないが、最初は赤い果実が熟して暗紫色になって乾燥する様子や、中から黄白色がかった独特な形の種子が採れるあたりには、コーヒーノキを思わせる部分があるようにも思われる。「マートルのbunchum」とは、コーヒー豆ならぬ「マートル豆」として、その種子を意味しているのではないだろうか…。


以上のようにあれこれ考えると、意外とラウヴォルフの言ったことは正しく、少なくともイブン・スィーナーが述べた"Bunchum"は、コーヒー豆を指していたのかも、と思えなくもない。もちろん、真偽のほどは定かではないのだが、とりあえずはコーヒー豆のことだと仮定して、もう少し考察してみよう。


イブン・スィーナーの(正確にはそのラテン語訳の)「ブンカム」に関する記載は、他の薬(生薬、薬用原料)に比べるとかなり短い。このことは「ブンカム」について判っていることが少なく、ペルシアの人々にとってはなじみの薄い、それほどメジャーな薬ではなかったことを示唆している。さらに、「イエメンからもたらされる」と書いてあり、また良品と粗悪品の見分け方に関する記載があることから、当時のペルシア(イラン)に、イエメンから「ブンカム」の実物が来ていたことは間違いないだろう。良品がレモン色というのは、コーヒー豆であれば、やはり生豆かパーチメントが、枯れて黄色くなったものを思い起こさせる。別の可能性として、ペルシアに持ち込まれる前に軽く焙煎されていたものが「レモン色で、軽くて、良い香りのする良品」で、生のままが「白くて重い粗悪品」と呼ばれてた可能性も考えないではないが…そこまで行くと都合がよすぎて、自分でもちょっと飛躍してる感があるので、ひとまず置いておこう。またその性状として「他の者によれば」と書いていることから、イブン・スィーナー以外の、おそらくは医学書を著すような学識者が、ブンカムについても言及していたと考えられる…ひょっとしたらアル・ラーズィーだったのかもしれない。


特に注目すべきは、これが「イエメンからもたらされる」という部分である。もしこれがコーヒー豆のことを指すならば、15世紀のゲマルディン(ザブハニー)以前に、イエメンにコーヒーの、それもおそらく生豆の部分を「薬として」利用する風習があった可能性を示唆するからだ。元々ゲマルディンがコーヒーを用いたのも、最初は薬としてだったと伝えられており、アントニー・ワイルド『コーヒーの真実』では、ゲマルディンがエチオピアに布教に行ったときに、コーヒーの利用を学んだものとしているが*3、既にイエメンでも存在が知られていた可能性があるだろう。9-10世紀頃に、エチオピア内陸部からイエメンに奴隷として買われてきた人々が既にそうした知識を提供し、あるいは運良く自由人の身分を獲得した者たちがエチオピアで使っていたコーヒーを求めて、利用していた可能性も考えられなくもないだろう。


この「イエメンからもたらされたブンカム」が、イエメンで採取されたものなのか、それともエチオピア内陸部からイエメンに輸出されて、それがペルシアに運ばれたものなのかはわからない。ただ仮にイエメンで採取されたものにせよ、人為的にまとまった栽培が行われたとは考えにくいだろう。14世紀にイブン・バットゥータがイエメンを旅行した際に、コーヒー栽培を目撃した記録がないことは、それを支持する理由の一つになる。『医学典範』からはペルシアにおいても元々、薬としてのブンカムの扱いは小さく、さほど需要のあるものではなかったことが伺えるので、エチオピアの内陸部から少量イエメンに送られたものか、ひょっとしたらイエメンにごくわずかに持ち込まれていたコーヒーノキから採取されたもので、十分にまかなえる量だったのではないだろうか。


イブン・スィーナー以降、約400年間に亘って、ブンカムに関する記述はイスラムの文献からも姿を消している。そして15世紀半ばに、イエメンでのコーヒー飲用の記録が現れ出し、ゲマルディンが1454年になって正式に「合法化」するのである。

*1:アル・ラーズィーについて言われてるのとは異なり、Bunchumが豆の煮汁でなく豆そのものを示している。

*2:Bennett A. Weinberg "The World of Caffeine". p.6

*3:この時期ちょうど、ハドラマウトからエチオピアに行ったイスラム伝道師の集団がいて、その中にどうもゲマルディンと似た名前の者がいたようなので、ひょっとしたらワイルドが取り違えてるのかもしれない