アクスムの終焉

10世紀初め頃まで、新天地の開拓で繁栄するかに思われたアクスム王国だが、10世紀後半から12世紀半ばにかけて衰退し、滅亡したとされる。ただしこの、アクスム滅亡前後の約200年間の歴史は非常に曖昧で、滅亡した経緯や正確な年代も判らない。


大まかな流れとしては、(1) 930-40年頃、国王の後継者を巡って兄弟間の争いがあった。 (2) 940年頃から、南方の先住民の女王が率いる軍勢が侵攻した。 (3) その後、ザグウェ朝が成立した。という、3つの出来事がこの時代に起こっている。(2)の先住民の女王によって滅ぼされたという説もあるが、一般には(3)のザグウェ朝によって、キリスト教リーダーとしての王権を簒奪された、という説が有力なようだ*1。ただしその場合も、ザグウェ朝の成立時期がいつごろかという点で意見が食い違い、(A)10世紀半ば頃に滅亡したという説と、(B)1137年頃に滅亡したという説がある。つまり、大まかにまとめると

  1. パターン:1→2→3A
  2. パターン:1→2→3B
  3. パターン:1→2

という感じだ。


エチオピアの伝承の多くでは、ソロモン朝の復興まで「333年の苦難の時代」が続いたと伝えており、そこから逆算して940年頃にアクスム王国の衰退が始まり、950-970年くらいの間に滅亡したと伝えている(パターン:1→2→3A)。しかし、イタリアの研究者コンティ・ロッシーニは『アレクサンドリア総主教の歴史』の記録から、少なくとも10世紀末〜11世紀初頭には、アビシニアの王とのやり取りがあり、正式なエチオピア司教座が復活していることを指摘した。そして1150年頃に、当時のエチオピア司教が国王と不仲になったことを伺わせる記録から、この頃にザグウェ朝による「簒奪」が起こったのだと考えた。さらに後世のソロモン朝の伝承にいう「333年の苦難」は、実際には「133年の苦難」であったという仮説を立て、1270年から見て133年前の、1137年にアクスム王国が滅亡したという説を提唱した(パターン:1→2→3B)。史学的には、こちらの説の方が近年は有力のようでもある。


この「時代のずれ」の一因には、自分たちがアクスム王国の末裔であることを主張するソロモン朝が、ザグウェ朝を「不当な簒奪者」とする物語を必要としたことが影響していると思われる。また先述のようにエチオピアアレクサンドリアに約70年の断交期があったこと、ソロモン朝がザグウェ朝が残した痕跡を抹消してきたことも重なって、滅亡期のアクスムの状況に関する情報は欠落している。特に、この時代の登場人物の名前は限られており、おそらくは複数の王にまつわるエピソードが、後世のソロモン朝の人々によって、いろいろと脚色されながら、デグナ・ジャンやディル・ナオドのような有名で武功ある偉大な王に重ねられていったのではないかと思われる。

*1:実際、『アレクサンドリア総主教の歴史』には、先住民女王の侵攻を受けていた時期以降も、アビシニアの王とのやり取りについての記録がある。すでにアクスムが滅んだ後のザグウェ朝の王だった可能性もあるため、完全に否定はできないが、アクスム王国の血筋は残っていたという考えが優勢のようだ。