「ショアの女王」の国


後継争いの次にアクスムを襲ったのは、南方の先住民による襲撃 --反撃と呼ぶのがより正確だろう-- である。9世紀末から10世紀にかけて、アクスムはその領土をさらに南に拡大するべく、アムハラからさらに南方の、ショア地方に暮らす先住民の土地に侵攻した。ショア地方およびその近隣の先住民は、おそらく複数の部族が一人の女王の旗印の下で協力して、アクスムの侵攻に対してよく戦い、大規模な侵攻を食い止めていたようだ。やがて先住民たちは逆にアクスムの領地に侵攻し、ついには国王の住む都(おそらくはクバール)にまで到達して、家や教会を破壊した。一説には約10年に渡って都を制圧したとも言われている。


この先住民たちを率いていた、シバの女王ならぬ「ショアの女王」が実在したことは、複数の史料に記載されており確かだろうと言える。「333年(または133年)の苦難の時代」に、ショア地方に君臨したと思われる女王に関しては、以下の4つの記録がある。

  1. 940年頃にアクスムを襲った「"Bani al Hamwiyya"の女王」(『アレクサンドリア総主教の歴史』)
  2. 930-40年頃にアクスムを襲い、977年頃も存命だった先住民の女王(イブン・ハウカルの記録。名前は記録されていない)
  3. アクスムを襲って滅ぼしたユダヤ教徒(ベタ・イスラエル)または先住民の女王「Gudit」の伝説(エチオピアの民間伝承
  4. ショア地方を治めて、1068年に死んだ「Mayaの娘、Badit女王」(ショア・スルタン国年代記


このうち、最初の二つは同一人物を指すと思われているが、あとの二人との関係性については判らない。一般には、(3)の女王「Gudit」も、(1)(2)と同一人物だとみなされることが多いようだが、Guditについては元々エルサレムから来たユダヤ人の子孫だとか、先住民の女王だとか、先住民がユダヤ教に改宗していたとか…あるいは彼女がアクスムを滅ぼしたとか、アクスム国王に代わって王位に就いたとか…そもそも名前にしてもGuditとかYoditとかJudithとか、'EsatoとかGa'Ewaとか、いろいろな別名があって、民間伝承の常でいろいろな話が史料と混じっているようで、よく判らない。(4)の「Badit」もひょっとしたら、そういった別名の一つで同一人物なのかもしれないが、彼女だけ時代がちょっとずれてるので、全くの別人か、ひょっとしたら(1-3)の女王の後継者に当たる人物だったのかもしれない。


彼女らの出自についても不明な点が多い。ほぼ共通して言えるのは、アムハラの南方のどこかをホームグラウンドにしていた、先住民部族の女王であった、ということだ。エチオピア先住民に見られるアニミズム(自然崇拝)の多神教では、シャーマン(巫女)が指導者としての役割を担うことが知られており、これを指すものと思われる。


アレクサンドリア総主教の歴史』において、この女王は「"Bani al Hamwiyya"の女王」と記録されている。"Banu" "Hamwiyah"などの表記ぶれもあるが、"Bani/Banu"はアラビア語で「〜の部族」を意味する言葉、例えばイエメンの「バニ=マタル」などにみられるものと同じである。したがって「Hamwiyya族の女王」という意味になるが、この「Hamwiyah」がどの部族を指すのかについては不明である。ただし、コンティ・ロッシーニが「Hamwiyahは、本来ならば、Damotと発音されるべき言葉だった」という仮説を提唱しており、多くの研究者も、それを否定する根拠がないとして、ショアの西部にある「ダモト」の部族を意味したと言うのが、現在は有力視されているようだ…正直、かなり無理がありそうな気もするのだが*1アラビア語やゲエズ語に堪能な本職の研究者の多くがそう言っているので、多分そうなのだと納得するよりない。

ただし、その「ダモトの国」が、この当時どこまで広がっていたのかは不明である。13世紀頃にショア地方に修道院を建てて、ショアおよび周辺の先住民にキリスト教を布教した功績で知られる、エチオピア随一の聖人、テクレ・ハイマノト*2が改宗させたのが、ショア西部のダモト(旧ダモト)の王である。これが明確に「ダモト」と書かれた人々の記録だが、この国は女王が主導していたわけではなかったようだ。また、この「ダモト」という言葉と、前回述べた「ダアマト D'mt」、アクスム以前にその北部で栄えていた国の名前の類似性を、多くの人が指摘しているのも気になる点である……ひょっとしたら、かつてのキリスト教エチオピアが「(南方の)蛮人」を「ガラ」、「流浪の民」を「ファラシャ」と呼んでいたのと同じように、元々は「異教徒の先住民」に対する総称が「ダモト(ダアマト)」だったんじゃないか、と想像を逞しくしないでもない。

また(4)の「Mayaの娘、女王Badit」に関して、その「Maya」が何を指すのかは判っていない。人名なのか、出身地の名なのか、出身部族の名なのか、いくつかの説がある。ただし、15世紀頃になって、ショアの南にあるワジュ(Waj)という小地方に暮らしていた人々が「Maya/Mayas」と呼ばれていたらしい。同じような名前の部族は、アムハラの北に位置する低地、アファールにもいたという説がある。もし、それがこのBadit女王の出身部族と何らかのつながりがあるならば、やはりショアやアムハラに隣接する部族を意味していた可能性が高いかもしれない。


何にせよ、南方のショア台地に向けて侵攻したアクスム王国は、ショア一帯から南西のエナリアまでを一旦は制圧したものの、ショア西部のダモトか、ショア南部のワジュか、その辺りにあった先住民部族による抵抗に直面したと思われる。彼ら先住民は「ショアの女王」の下、ショア台地に侵入していたアクスム人たちを北のアムハラまで押し戻した。その後、後継者争いによるアクスム王国の内紛で国力が低下したのに乗じて、さらなる先住民による反攻が行われ、アムハラやクバールにまで追撃して人々を殺し、教会や建物を破壊した。これがアクスム王国を直接滅亡させたという女王Guditの伝承(パターン:1→2)が正しいかどうかは定かではないものの、この侵攻が王国に与えた損害は大きく、アクスム滅亡の大きな要因になったことは疑う余地がないだろう。この「ショアの女王」の国は、11世紀後半まで続いていたようだ。そして指導者である女王の死後、イスラム教徒らの「ショア・スルタン国」が生まれたと言われる。

*1:あくまで個人的な印象だが、「Hamwiyyaは、Damotの転訛」と言われるよりも、「Hamwiyyaは、(後述の)Mayaの転訛」と言われる方が、何となくそれっぽく聞こえる気がする。

*2:ザグウェ朝の開祖であるマララ・テクレ・ハイマノトと同名だが直接のつながりはないらしい。