カフワ≠コーヒー

アブドゥル=カーディルは、彼の過ごした時代と地域で飲まれていた「カフワ」のルーツを突き止めた。しかし、現代を生きる我々は、彼の分析結果を以て、果たして「現代の我々が飲んでいるコーヒー(6)」のルーツを突き止めた、と言えるのだろうか?……これは大きな問題である。


少なくとも、アブドゥル=カーディルの時代に飲まれていたカフワ(5)が、我々が飲んでいるコーヒー(6)の「祖先」であることは間違いない。イエメンで飲まれ続けている「キシルのカフワ」は、15-16世紀当時から変わっていないようにも思われる。しかし一方、この当時の「ブンのカフワ」は、「実と種(乾燥させた果実と、パーチメントとコーヒー豆)」を丸ごと用いたものであり、現在のように「コーヒー豆だけ」を利用したものではない。どこかの段階で「コーヒー豆だけ」を利用するような変化が起こったと考えなければならない。ではその変化はいつどこで起きたのか、すなわち我々が飲むような「コーヒー豆だけを煎って用いるコーヒー」は、いつどこで生まれただろうか……それを解くには、エチオピアとイエメンという「コーヒーのはじまりの地」について考えただけでは無理なようだ。

飲み方の違い

コーヒーの利用は、やがて16世紀にかけて、マッカ、マディーナ、エジプト(カイロ)、そしてトルコ(コンスタンティノープル)へと広がっていく。少なくともトルコまでは「キシルのカフワ」と「ブンのカフワ」の、両方があったことは明らかだ:トルコにおけるキシルのカフワは「スルタンコーヒー café à la sultane」と呼ばれているし*1、また18世紀にレバント地方を旅したニーブールの記述から、レバント地方でも二つのカフワが存在していたことも明らかだ*2


コーヒーがヨーロッパに伝わる過程においてトルコが果たした役割は大きい。そして少なくとも、1669年のフランスに、トルコからの大使ソリマン・アガがのルイ14世の宮殿に伝えた際には、現在の「トルココーヒー」と同じスタイル、すなわち「コーヒー豆だけを煎って用いるコーヒー」になっていたと考えられる。コンスタンティノープルにおいてコーヒーを禁止するべきというファトワが出された際、クルアーンコーラン)にある「炭になったものを口にしてはならない」という一節が引用されたという記録が残っている。このファトワは間もなく「煎ったコーヒーは炭とは明らかに別物である」という理由で反論された。しかし、この当時、16世紀のトルコにおいて「炭を連想させるくらい」すなわち、そこそこの深煎りが行われていた可能性が考えられる。

また一方、今日のアラビア半島において見られる、俗に「アラビアコーヒー」と呼ばれる飲み方は、トルココーヒーと似たように「コーヒー豆だけを煎って用いるコーヒー」ではあるが、今日のトルココーヒーとは異なり、むしろ浅煎りで、カルダモンなどを加えた「あっさりした飲み物」である。その味わいは、むしろキシルと共通するような部分も感じさせる。

こうした地方による飲み方の違いは、アラビア半島で言われていたという俗説を思い出させる…いわく、キシルは体から熱を取り去るため、夏や温かい地方で飲まれ、ブンは体を温めるため冬や寒い地方で飲まれる。トルコに比べて暑いアラビア半島では、ブンについてもキシルに近いような飲み方をしたのかもしれない。


またこうした地域による飲み方の違いが、その後のヨーロッパの飲み方に与えた影響も気になるところだ。ヨーロッパへのコーヒーの伝来には、大きく分けて四つの道筋がある。

  1. イエメンから(おそらくオランダ経由*3で)イギリス*4へ(1650年頃)
  2. レバント地方から地中海、イタリア、フランスのマルセイユやパリ*5へ(1650年代後半、ただし普及せず)
  3. オスマン帝国からの大使ソリマン・アガがトルコからパリに伝えてフランスの上流社会から普及(1669年)
  4. 第二次ウィーン包囲のときにトルコからウィーンへ(コルシツキーのエピソード、1683年)

少なくとも1922年に書かれた"All About Coffee"の当時から、イギリスは(世界的には少数派だが)「浅煎りのコーヒーが好まれる地域」に挙げられている。イギリスの浅煎り嗜好には、19世紀末のイギリスで焙煎機の開発が盛んだったことが影響していた可能性を第一に考えなければならない…同様に焙煎機開発が盛んだった19世紀末のアメリカ西海岸も浅煎りが中心となっていたからだ。

しかしヨーロッパへの伝播の経緯をみると、初期に普及した国の中ではイギリスが、フランスなどと異なりトルコからではなく、アラビア半島の中では暑い地方で、今もキシルが飲まれているイエメン(モカ)から伝わっている点も気にかかるところだ。ひょっとしたら、最初にイエメンから伝わったときの風味が人々に刷り込まれた結果として、キシルやアラビアコーヒーのような飲み口の浅煎りのものが嗜好されつづけたという可能性もあるかもしれない*6

「ブンのカフワ」から「コーヒー」へ

「ブン」から「キシル」の部分が除かれて、「コーヒー豆だけ」になったのは何故なのか…この問題についてはいくつかの可能性は考えられる。しかし「これだ!」という答えが出ないのが現状だ。

  1. 果実の部分が残ったままのブンでは、十分に乾燥しないと輸送や保管中に腐敗やカビなどの問題が発生したから。特に、嗜好品としての需要が増えて生産量が増えると、腐敗しないまで完全に乾燥するには時間がかかったため、とっとと殻をはいで輸出した。
  2. 実はイエメンではキシルの人気の方が高かった?ため、それを取った残りの「種」が輸出に回された。
    1. ヨーロッパでの需要が高まってコーヒーが品薄になったとき、それを補うためイエメンなどで「種」とキシルを分けて売るようなった
  3. キシルの部分ではわずかにアルコール発酵が起こる可能性があるため、ハラム(禁忌)を避けたいイスラム教徒がこれを除いて飲むようになった。


16世紀にカイロやコンスタンティノープルでは、いくどかコーヒーを禁止するファトワが出されている。その中身は、コーヒーハウスでの人々の反政府的な集まりだけを禁じるものから、コーヒーの利用そのものを禁じたものまでさまざまだ。しかし、何度かの「過激な」取り締まりにおいて、「キシルが集められて、焼き捨てられた」という記述が見られる…ただし、ブンについてはこうした記述は見られないようだ。

そして我々は、200℃以上で20分という、普通の食品ならば焼け焦げてしまうような温度と時間の条件で、我々が愛飲する「コーヒー」が生まれていることを知っている。あくまで可能性にすぎないが、ひょっとしたら我々の飲む「コーヒー」は、こうした取り締まりで、キシルのみならず、ブンを焼き捨てようとした中から見つかってきたものなのかもしれない。


トルコにおいて、キシルのカフワは「スルタンコーヒー」と呼ばれた…それはスルタンの権威を以てして初めて飲めるものであり、希少な、あるいはひょっとしたらハラムとすれすれのものだったのかもしれない。これに対して、一般庶民が飲むのは「ブンのカフワ」であり、それがやがて「(トルコ)コーヒー」となった。当初のブンにはまだキシルの部分も残っていて、それはやはりハラムとすれすれのものだった。

しかし、これをひとたび火に投じることで「浄化」され、ムスリムに相応しい飲み物へと姿を変え、そしてその性質も「冷」から「温」へと変化を遂げる…そうした錬金術的な発想が作用していた可能性にも、やはり捨てきれない魅力を感じずにはいられない。

*1:Colas "Journal de pharmacie et des sciences accessoires", Vol.2, 1816, p.153

*2:Carsten Niebuhr "Voyage de M. Niebuhr en Arabie et en d'autres pays de l'Orient", 1760, p.245

*3:1616年にはオランダ商人ファン・デン・ブルックがオランダに持ち帰っており、また1640年にはオランダがモカから輸入を初めている

*4:オックスフォードでは1650年にコーヒーハウスが開業している

*5:1657年にレバント地方を旅していたJean de Thévenotがパリに持ち帰ったという説がある http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_de_Th%C3%A9venot

*6:もちろん、紅茶の味との共通性も無視できないだろう。