ザブハーニーと「ブンクム」のつながり

アブドゥル=カーディルやサハーウィーの記述を見る限り、ザブハーニーは法学や神学に関する学識が豊富だったことは確かだが、彼がイスラム医学に通じていたことを示す記述はない。にも関わらず、ザブハーニーは自分の病気を自己診断して、それを治すためにコーヒーを用いたと伝えられている。

上述のように、アデンに戻ったザブハーニーが何の病気に罹ったのかはわからないものの、もしそれが「疥癬」であったと仮定するならば、いろいろな事柄がうまく繋がってくる。ザブハーニーは、イブン・スィーナーの『医学典範』を読んで「ブン/ブンクム」が「疥癬」に効果がありそうだという話を知った(知っていた)のではないだろうか。


彼は「若い頃、真面目に勉強し」ていたし、アデンで法学者、スーフィーとなってからも多くの文書を読んでいたことは疑いがない。『医学典範』は西洋に紹介されてからヨーロッパ医学にも長い間、非常に大きな影響を与えつづけた大著であり、イスラム圏でも非常に重要な医学書であった。この当時、医学的な内容を調べようと思ったら、真っ先に調査すべき書物の一つだったろう。

また、アデンはもともと交易で栄えていた町でありさまざまな交易品に関する情報が特に重視されていたと考えられる。このため『医学典範』のように各地の薬に関する資料が必要とされ、アデンのどこかに所蔵してあったというのは不思議はない。あるいは14世紀末にラスール朝に招聘された、アル=フィールザバーディーがアデンに立ち寄った際、ペルシアからそういった書物をもたらした可能性もあるだろう。


またザブハーニーがカフワについて述べたとされる別の記述についても、『医学典範』のブンクムの性状との合致が見られる。

  • カフワは疲れやだるさを取り去り、身体にある種の精気と活力をもたらすことを彼は発見した(イブン・アブドゥル=ガッファール)
  • そこで彼は、信奉者たちに「コーヒーの豆[bunn]も覚醒状態をもたらすから、それからカフワを作ってみたらどうか」という示唆をあたえた(ファクルッディーン)

イブン・スィーナーの「四性」に照らしてみると、疲労や眠気は「湿」である。これに対して「乾」の性質をもつブンクムはそれらを取り去り「覚醒をもたらす」と解釈できる。また四大元素に準じて解釈するなら「熱・乾」を持つものの性状は「火」で、その味は「苦味」である。


このように考えるとブンクムの記述が、我々の知るコーヒーの姿と近しいことが判る……ブンを炒って作ったコーヒーは「苦く(=熱・乾の性状)」、またそれ(に含まれるカフェイン)には覚醒作用があって、眠気を取り去り、精神や肉体の疲労を一時的に取り去る。また(カフェインに)利尿作用もあるため、如何にも「体にたまった湿気を排出する」ようなイメージにつながりそうだ。

ザブハーニーなど当時の人々がイブン・スィーナーの書を見ながら「ブンクム」を飲んで試してみたなら、いかにも「本に書いてある通り」の作用が重なって自分の体に生じ、その記述が「つじつまが合ってる」ように感じたことだろう。


ただし重ねて言うが、イブン・スィーナーの医学理論が、現代の医学に照らして正しいというわけではない。むしろ、とっくに間違いとして否定された理論体系である。実際に「コーヒーやカフェインが疥癬に有効かどうか」について、現代の観点から言うと医学的根拠は皆無であり*1、全く期待できないので注意されたい。

その他「性状」から解釈する

ブンクムを「熱・乾」とするイブン・スィーナーの解釈に従うと、アッ=ラーズィーに記載されていたとされる胃への作用も説明ができる…「冷」が消化力の不足、「湿」が消化不良と結びつくからだ。


また「他の者によれば第一に冷」であるが、これについてはひょっとしたらブンとキシルの違いが関係するかもしれない。ブンとキシルという二つのスタイルのコーヒーは、ザブハーニーの時代のイエメンにあっただけではなく、16世紀のカイロやコンスタンティノープルにも存在していたことが判っている。最終的にイエメン以外ではキシルの利用は廃れたが、イエメンではブンよりもキシルがメジャーな利用法として現代まで続いている。これはイエメンがブンの部分を輸出に回したことが大きく影響しているが、もう一つブンとキシルの性状の違いから、イエメンでは「夏はキシル、冬はブン」という季節による違いがあったという説がある。ブンの味は苦くて「熱・乾」で体を温めるのに対し、甘味と酸味があるキシルの性状を「冷」として体を冷やすものと考えたためらしい。この考え方から発展して、より赤道に近いイエメンではキシルを用い、それより高緯度なコンスタンティノープルの気候にはブンの方が合致する、という考え方もあったようだ。


なお、この「体を冷やす/温める」に関して「コーヒーは体を冷やす」という俗説が現代の日本にあるが、「体を冷やす」云々の元ネタはどうやらマクロビオティック(マクロビ)による「暑い地方では体を冷やす食べ物が作られる」という考え方のようだ。マクロビオティックには医学的・栄養学的に見て問題点が多いが、諸問題に関してはリンク先を参照されたい。

なおコーヒーやカフェインには「Thermogenetic 熱生成」について報告した科学論文はあるが、体を冷やすという報告はない*2。イブン・スィーナーの四体液説もとっくに否定された学問大系だが、この点に関しては、まだイスラム医学の方が「まし」だったかもしれない。

*1:PubMedで検索しても、一件も出てこない。

*2:とか言うと、また「熱を作ることで冷える」とか、いろいろな「解釈」を述べる人が出てきそうですが、この手の医学/生理学的な作用についてはきちんとした査読付きの学術論文のレベルで「立証」しない限り、意味がない主張なので悪しからず。