コーヒーの合法性

こうしたイスラム法学の背景を踏まえて、当時のイスラム社会における「コーヒーの合法性」について考えてみよう。

大天使ガブリエルが預言者に授けたコーヒー?

クルアーンにコーヒーを示す記述は見られないが、コーヒーの起源にまつわる「伝説」の一つに「預言者ムハンマドに、大天使ガブリエルが教えた」という説がある。

マホメットその人に大天使ガブリエルが教えたという説。さらにマホメットが生死の境を彷徨う重病のときにガブリエルが預言者にコーヒーを与え、病を癒したという話になっているものも(イスラム圏の説話と説明がしてある場合が多いが出所不明)。

もしこの伝説が正しいならば、つまりイスラム法学上の「(預言者の)スンナ」を満たすことになる。「預言者は常に正しい行いをする」のだから、本当に「預言者がコーヒーを利用した」ならば、それはすなわちコーヒーが合法であるという最もゆるぎない証拠になる。


しかし残念ながら、こうした記述は現存するハディースの中には見られない。また、もしハディースの中にこのような記述があったならば、アブドゥル=カーディルがそれを見落とすことはまずありえないから、少なくとも、スンナ派が認めるハディースの中には存在しない内容だと考えていいだろう。

イスラム教が広がる過程で、ハディースの中に出所の分からない内容が混入する例があったことは既に述べた。この説話もそうしたものの一つである可能性は高い。ひょっとしたらイスラム圏にコーヒーが広まる過程で、コーヒーを擁護しようとする者たちが作り出し、広めた「偽のハディース」なのかもしれない…「預言者が飲んだ」と言うことができれば、それでもう合法性のお墨付きを得たことになるのだから。

慣習か逸脱か

コーヒーの飲用が、クルアーンハディースに記述されていないということは、少なくともスンナ派にとって、いくらか厄介な問題を生じる。スンナ派では、その名の示す通り「預言者の慣行(スンナ)」が重んじられ、それに含まれないものは「ビドア(革新または逸脱)」として扱われる。

後代になると「悪しきビドアと善きビドア」という考え方も生じた…例えば、大人数が集まるモスクでの演説のときに拡声器やマイクを用いることは、預言者の時代にはありえなかったことだが「善きビドア」として許容されている…が、伝統的ないし純粋なイスラーム的な考え方においては、そうしたごく一部の例外を除いて、基本的にビドアは退けられるべきものとして扱われている。コーヒー飲用が始まった頃のイスラム世界において、「コーヒー(カフワ)は、ビドアである」ということが、コーヒーを禁忌とする上で有力な根拠に挙げられていた。


それにも関わらず、なぜ、ビドアであるはずのコーヒーが、15世紀のイエメンにおいて受け入れられていったのだろうか。その理由となる鍵は、おそらく二つある。一つは「エチオピア」、もう一つは「スーフィズム」である。

第一の鍵:エチオピア

コーヒー利用の起源を考えるにあたって、コーヒーノキの自生地であるエチオピア西南部に存在したイスラム国家…ショア・スルタン国とイファト・スルタン国…が、イスラム圏へと繋がるパイプの役割を果たした可能性については、以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130213)述べた。これらのエチオピアイスラム国家において、コーヒー利用がどのように扱われていたのかは、重要なポイントになると考えられる。

ラスール朝下で学問が発達したイエメンとは異なり、エチオピア内陸部では、イスラム法の遵守がそこまで徹底されてはいなかった可能性がある。多くの原住民たちと共存するにあたって、始原的なカフワやコーヒーの利用*1が、ある種の「ウルフ(イスラム以前の慣習)」的なものとして、ショアやイファトのアラブ系イスラム教徒らにも受け入れられていた可能性は考えられる。ただし残念ながら、これを直接示す手掛かりは残っていない。


一方、イエメンにおいては、エチオピアから奴隷として連れて来られた人々とその子孫達(アビード)が、コーヒー利用の普及と受容に関わっていた可能性についても以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130603)述べた。いかに厳格なイスラム社会といえども、彼らのような下層階級においては、飲酒や賭け事など戒律で禁じられた享楽に耽る者がいたことは確かだ。特にラスール朝末期のザビード無政府状態と化し、アビードが一大勢力になっていたことから、彼らが故郷エチオピアでの風習に倣って、カフワやコーヒーを嗜んでいたとしても不思議はない。彼らのそうした行動が、コーヒーの利用を「既成事実」化させていった可能性は十分に考えられる。

第二の鍵:スーフィズム

もう一つの、そしてさらに重要な鍵がスーフィズムである。スーフィズムが世界の各地で発展するに際して、さまざまなドラッグの使用を伴っていたことは、以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130603)述べた。

伝統的なスンナ派の考え方に従うならば、こうした薬物の使用は、いずれも「ビドア」に該当するはずのものである。しかし、スーフィズムでは「イバーハ(許容)」という考え方で、しばしばそれらの使用を正当化していた。「イバーハ・アルアスリーヤ(本来的許容性)」「アル=アスル・フィ=ル=アシュヤーウ=ル=イバーハ(すべてに関して等しく許されたという基本的条件)」とも呼ばれる。唯一神であるアッラーが万物を作った以上、万物の本質は基本的に「許されたもの(ハラール)」だと見なし、「革新(ビドア)は、それが違法であると証明されないうちは適法である」ということを基本的原則とする考え方である。慣行を重視するスンナ派の法学の資料にはあまり出て来ないが、シーア派スーフィズムにおいてはしばしば認められる。


イエメンにおけるカフワやコーヒーの初期の普及が、スーフィー教団によって牽引されていたことは、多くの文献から明らかだ。スーフィーたちが夜通し行う勤行(ズィクル)で目覚ましに利用したことが、その最大の理由になったと言えるが、そもそもその導入を可能にしたのは、彼らの持つ「革新(ビドア)」に対する許容(イバーハ)的な姿勢があったからこそだと言えるだろう。

逆に言えば、伝統的なスンナ派の勢力が強い状況では、カフワやコーヒーが、少なくともおおっぴらに広まるのは難しかったはずだ。ラスール朝時代のザビードがまさにそうした場所であったし、ターヒル朝の時代に入って敬虔なアリーが統治していたころのザビードもまたそうした場所だったと考えられる。このためカフワやコーヒーの利用は、ザビードよりはむしろその郊外、モカやウサブ山、そしてアデンで行われていたと考えられるし、ザビードにおいてはこの二つの時代に挟まれた、無政府状態の混乱期に特に普及し、ターヒル朝の時代になってからも、その利用者が潜在していたと考えられる。

ザブハーニーによる「是認」

こうした状況下において、ザブハーニーによる「是認」とは具体的にどのようなことで、また社会的にどの程度の意味があったのだろうか。


ザブハーニーがアデンのムフティーであったことから、彼はイジュティハード(法的推論)によって、物事の合法性を自ら判断できる人物である。さらに、アデンの共同体にも適用できるような公的な判断を下すことが社会的に認められていた。ムフティーの重要な役割は、こうした法的意見を文書としてまとめて発表すること、すなわちファトワーの発行である。ザブハーニーがムフティーであったことから、彼がコーヒーの飲用を認めるファトワーを発行したことを期待せずにはいられないが、残念ながら、彼がそういうファトワーを発行したという記録はないようだ。


ザブハーニーとコーヒー飲用の関わりについて言われていることは、三つある:一つはアブドゥル=ガッファールが伝聞した内容で、ザブハーニーがアデンで病気になったときに用い、それが彼の仲間のスーフィーたちにも広まったこと。一つはザビードの長老アレウィ・イブン・イブラヒムの目撃談で、彼が若い頃にザブハーニーが公衆の面前でコーヒーを飲んでいたということ。もう一つはファフルッディーン・アル=マッキーの記述で、アデンで入手困難だったカートの代わりにコーヒーからカフワを作ることをザブハーニーが提案したという話である。

いずれにしても、ザブハーニー自身がコーヒー(から作ったカフワ)を飲用し、周囲の人にもそれを推奨していたことは確かである。つまり、ムフティーをつとめるほどにイスラム法に詳しく、また法的判断が可能な人物が、自ら率先してコーヒーを飲んだというその言行そのものが、コーヒーの合法性を主張する何よりの証拠だと見なされたのである。当地の人々にとっては、預言者のものとは異なるが、一種の「スンナ(慣行)」のようなものとして、お墨付きが与えられたと考えて良いだろう。


アブドゥル=カーディルによれば、このザブハーニーによるコーヒー是認がもっとも初期のコーヒー飲用の公的な記録だと位置づけられている。ただし彼は慎重に、エチオピアや「アジャムの地」でそれより古くから用いられていた可能性や、「モカ守護聖人」アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーによるカートから作ったカフワについて言及しており、ザブハーニーをあくまで「最初の公的な記録」としている。


また、しばしば誤解されがちだが、このザブハーニーによる「是認」は、同時代のアデンやその周辺において意味を持ってはいたものの、後の時代、あるいはマッカ(メッカ)やカイロ、コンスタンティノープル(トルコ)などにおいて、効力を持つものではなかった点には注意が必要である。実際、ハイール・ベイによるカイロでの弾圧や、オスマントルコでコーヒーを禁じるファトワーが出された件などに、ザブハーニーによって「是認」されていたという先例は何の影響も与えなかった。

仮にザブハーニーがファトワーを発行していたとしても、この点は変わらない。ファトワーはムフティーによって発行される公的文書であるが、例えば、後に一部のイスラム過激派がファトワーを乱発した例があるように、ムフティーの裁量次第(=ラアイ)で決まってしまう部分があることは否定できない。コーヒー利用やコーヒーハウスに対して否定的な考え方を持つ権力者が、ムフティーや法学者、医師などを抱き込んで、コーヒー利用を抑圧し、禁止することは可能だったのである。


そして、だからこそアブドゥル=カーディルは『コーヒーの合法性の擁護』を著したのである。彼はスンナ四法学派の中でももっとも保守的で、テキスト(文献史料)を重視することで知られるハンバル派の法学者であった。著述の端々から、スーフィズムに対する理解が伺えることから、おそらくスーフィーたちとの親交はあったと思われるが、彼自身がスーフィーであったという記録はなく、むしろその著述はハンバル派らしい厳正かつ理知的な分析で貫かれている。彼はムフティーのような高い地位にあった人物ではないが、16世紀後半のエジプトで入手可能な史料や情報をすべて集めた上で、コーヒーの合法性を公正に判断し、その結果として適正な飲用を擁護すべきという結論に至った。そして、彼がその最初の根拠として挙げたのが、ザブハーニーによる是認だったのである。



ところで、実は他の文献を参照すると、ザブハーニー以前にコーヒーの飲用を是認したらしき記録が見つかる。次回はそれについて検証し、さらにザブハーニーがスーフィーになるに至った過程を考察しよう。

*1:カートから作られるものを含む飲み物や、コーヒーの実や種子から作られる飲み物以外に実や種を食べるなどの利用形態を含む