怪しげな仮説

上記を踏まえて、今回も怪しげな仮説を立ててみよう。


ユーカースは"All about coffee"において、ザブハーニーがコーヒーを是認したのを「1454年頃」と推定した。これは単に「中世と近世の境目」として書いたものにすぎなかったのだが、偶然にも、かなり近い年代をさしていた。


1442年にラスール朝の後継者争いが始まったことで、当時までイエメンの学術と宗教の中心であったザビード無政府状態となり、正統なイスラム学者(ウラマー)らの体制も崩壊した。一方アデンは、1448年頃にラスール朝後継候補の一人であるマスウードの本拠地となっていた。彼は、アデンを統治するにあたって、いくつかの法的文書を出したり、人々の訴訟に応えたりしていたが、それがイスラム法的に正しいかどうかの「お墨付き」を得るために、この当時のアデンで、もっとも学識に富んだ人物に依頼した…その人物こそがザブハーニーであった。


1454年のある日、マスウードは何らかの理由でアデンを去り、それと入れ替わりにもう一人のラスール朝後継候補、ムアヤドがザビードからやってきた。彼もまたアデン随一の学識者であるザブハーニーに、法的文書の監査を依頼した。その中に「ムアヤドこそが正統なラスール朝の後継者である」と書かれた文書も混じっていたかもしれない。


ザビードの人々に擁立されたムアヤドはもちろん、マスウードの支持者*1にもザビード出身の人々がいたことは明らかだ。ひょっとしたら例えばムアヤドがアデンに入ったときに、彼を支持するスーフィーたちが付いてきたかもしれない。そして彼らがカフワやウサブ山の「コーヒーのスープ」をアデンに持ち込み、ザブハーニーがムアヤドと交流する際にそれを知ったという可能性もあるかもしれない。

マスウードやムアヤドと接していたころのザブハーニーが、どのような暮らしをしていたかはよくわからない…ひょっとしたらマドラサ(学院)の教師を務めていたのかもしれないし、既にスーフィーとして隠遁生活を送っていたのかもしれない。ただしそういった生活の傍らで、ザブハーニーはその学識を活かして「ムフティー」として、彼らの法的文書の監査役を勤め上げたのである。そうすることでまた、ザブハーニーに対するアデンの人々の信頼も高まっていった。


だが同じ1454年、ターヒル家の四男アーミルがアデンの塀を乗り越えて侵入し、ムアヤドを捕えて、アデンを占拠した。翌日には長男アリーがアデン入りし、ムアヤドは「王位を放棄し、以後はアデンで隠居生活を送る」ことを彼らに誓って赦された。こうしてラスール朝は滅亡し、新たにアーミル(アーミルI世)を初代スルタンとするターヒル朝の時代が始まった。

アデン制圧から、しばらく後、長男アリーはザビードに向かい、反抗勢力を追い払ってザビードの総代となった。アデンには初代スルタンとなったアーミルI世が残ったが、まもなくターヒル家の忠臣イブン・スフヤーンがアデンの代官に任命され、アーミルI世は、首都タイッズや本領地ジュバンとアデンを行き来する生活を送った。ザビードではアリーが学者らを再び厚遇、庇護したため、再びザビードが学問と宗教の中心になり、ターヒル朝イエメン全体に関わるような法的決定はザビードで下されるようになった……そしてアデンのザブハーニーは、以前に増して表立った活動をしなくなり、一層、隠匿的な生活を送るようになったのである。

*1:例えばジャヤーシュ・スンブリーはマスウードに仕えている一時期、ザビードの代官を務めていた。