文献上の「1454」

上述のようにド・サッシー『アラブ文選』の「訳文中には」「1454年」を示す記述はない。ところが実はよくよく読んでいくと、この「1454年」という年代が書かれた部分を一箇所だけ見いだすことができる。それは脚注(1)として、ド・サッシーが解説した部分である。

Et en outre, suivant le manuscrit de l'Escurial, l'usage du café doit avoir été introduit a la Mecque en 859, date qui ne se trouve pas dans notre manuscrit, et qui est, je crois, remplacée par l'an 875, époque de la mort de Djémal-eddin Dhabhani. (de Sacy, p.441)*1


(訳:そしてまた、エスクリアルの文書によりば、コーヒー利用はメッカに859年に導入されたことになるが、その日付は我々の原本には見られず、それはジェマレディン・ザブハニが死んだ年である875年に置き換えるべきだと、私は信じる。)


ド・サッシーが『アラブ文選』の中で翻訳した、アブドゥル=カーディルの『コーヒーの合法性の擁護』の原本は、パリにあるフランス国立図書館(旧王立図書館)に収蔵されていたアラビア語の写本である。ド・サッシーより先に、アントワーヌ・ガランが翻訳した抄訳を"De l'origine et du progrez du Café" (http://books.google.co.jp/books?id=Qb8-AAAAcAAJ) として発表したときの原本も、これと同じパリ国立図書館のものである。

これとは別のアラビア語写本が、スペインのエル・エスコリアル修道院にも、アブドゥル=カーディルの『コーヒーの合法性の擁護』が存在している。当時、ミゲル・カシリ(Miguel Casiri)という東洋学者が、エスコリアル修道院にあったアラビア語文書の目録を作成しており、それぞれの概要をまとめたラテン語の文書が現存している。『コーヒーの合法性の擁護』は、その文献番号1765 (http://books.google.co.jp/books?id=SJ7HdvD1saMC&pg=172#v=onepage&q&f=false)として収載されており、その説明文に以下の記述が見られる。

Hujusmodi potionis usum, quem primus in Meccam invexit anno Egiræ 859.

(その飲み物[=コーヒー]のこのような利用は、ヒジュラ暦859年にはじめてメッカに導入された)

この「ヒジュラ暦(=イスラム暦)859年」が、西暦では1454-1455年に当たる年である。すなわちこちらの写本には、コーヒーがマッカ(メッカ)に伝来したのは1454(-1455)年と書かれているようだ。ここには、どこからマッカに伝わったのかについての記載は見られない。しかしこれがイエメンからマッカに伝来したのであれば、イエメンでは1454年の時点で既にコーヒーが利用されていたことになる。


ただし問題は、この「ヒジュラ859年」に関する記載が、ガランやド・サッシーが訳したパリ国立図書館の版には見られないということである。パリ国立図書館版と、エスコリアル修道院版には、これ以外にもいくつかの点で違いがあった:エスコリアル修道院版が書かれたのがヒジュラ966年(1557年)とされているのに対し、パリ国立図書館版はヒジュラ996年(1587年)である。このことは先に記録していた(1770年)ミゲル・カシリが既に指摘しており、ド・サッシーもまたこれを確認するとともに、パリ国立図書館版の内容を精査して、この"996"が単に"966"を書き間違えたのではなく、両者の内容には他にも多少の相違があるらしいことを脚注1で指摘し、「アブドゥル=カーディルの『コーヒーの合法性の擁護』には、1557年に書かれた初版と1587年に書かれた第二版が存在し、前者がエスコリアル修道院に、後者がパリ国立図書館に収蔵されている」と結論づけた*2


もしド・サッシーの推理が正しかったとすると「コーヒーの利用が1454-55年にマッカに初めて伝わった」という記述は、アブドゥル=カーディルの初版には存在していたが、30年後に書かれた第二版では削られてしまった可能性がある。ひょっとしたら30年の間に誤りであることが判明して、アブドゥル=カーディルが二版以降で削った可能性もあるかもしれない。

*1:http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=qLVhAAAAMAAJ&pg=441#v=onepage&q&f=false

*2:ただしラルフ・ハトックスは『コーヒーとコーヒーハウス』において、エスコリアル修道院版に写字生の誤りや脱落が多い点を指摘しており、エスコリアルの写本では「60 スィッティーン sittuin」と「90 ティスイーン tis'in」が混同されたためではないかとしている。ハトックスはまたド・サッシーが年代特定の根拠としてうるサード・アッディーン・アリー・イブン・ムハンマド・イブン・アルアッラークという学者の没年を、パリ版の993年でなく、エスコリアル修道院版と同じヒジュラ963年とする史料を示して、本書が書かれたのをヒジュラ993年以降とするド・サッシーの説に疑問を呈している。