ラスール朝後継者たちとザブハーニーの接点?

アブドゥル=カーディルの著述には、ザブハーニーが「ムフティー」と呼ばれる、イスラム法学者の中でも特に学識があり、公的に認められた立場であったことが記されている。以前推定したように、ザブハーニーの没年が1470年であり、そこから1400年前後の生まれだと推定すると、この当時は50歳前後、すでに「長老」と呼ばれてもおかしくない年齢である。ムフティーのような、共同体における重要な立場にあったとしてもおかしくない年齢だろう。仮にムフティーになったのがもっと晩年だとしても、この当時のアデンを代表する学識者の一人であったことは疑いない。いずれにせよ、1440-50年代に、彼がマスウードやムアヤドといったアデンの王位請求者たちと何らかの交流を持っていたとしても不思議はないだろう。


イスラム共同体におけるムフティーの役割は、イスラム法に基づく公的見解を述べることである。この見解は「ファトワ」と呼ばれ、文書として発行される…言い換えると、ムフティーだけがファトワを発行する権限を持っている。ムフティーファトワを発行する最も典型的な例は、裁判の場合である。裁判の原因になった事柄に関して、それと同じ、もしくは類似する事例を、クルアーンコーラン)やハディース預言者の言行録)集から引用し、正否に関する判断をファトワとして著すのである。イスラムにおける裁判官(カーディー)は、彼ら自身も法に関する十分な知識を持ってはいるが、より専門的な見解を仰ぐためにムフティーファトワを求めることは珍しくはなかった。この例に限らず、法的見解を求める者に対しては誰であろうともそれを与えることが、ムフティーのつとめであったため、その土地の有力者や一般の人々に対してもムフティーファトワを与えることがあったという。


一般的にイスラム共同体において、ムフティーになるための特別の資格や承認が存在するわけではない…ある人物が自らムフティーを名乗り、また他の誰からもそれに文句が付かなかった場合に、彼はムフティーということになる。とはいっても、共同体においてムフティーとして認められるには、十分な学識を有することに加えて、特に公正さにおいて、社会的な信頼を得ていることが重要だと考えられる*1。若い頃に非常に勉強していたザブハーニーは、おそらくこの当時のアデンにいた学者の中で、特に多くの知識に通じていたことが伺える。それは、アデンの人々からムフティーとして認められていた理由の一つだったと思われる。


ただし一方、ガランやド・サッシーによる訳文を読むと、ザブハーニーの立場に関する記述には、このような「一般的なムフティー」とは微妙な違いを感じさせる部分がある。

Le rang qu'il y tenoit, estoit tres considerable, puisqu'il estoit Moufti sous l'autorite du Prince qui y regnoit alors. (Gallan. p17)*2

このガランの訳では、ザブハーニーは「そこ(=アデン)を統治する王子の権威によって、ムフティであった」ということになっている。これをそのまま受け取るならば、「王子 "Prince"」という言葉が使われている点は興味深いかもしれない…この言葉はラスール朝時代のスルタン自身や、またターヒル家のような代官や家臣でなく、ラスール朝の「後継」を名乗るマスウードやムアヤドにぴったりくる言葉だからだ。ただし、残念ながらこの部分にそのまま該当する記述は、ド・サッシー訳には見られないようだ。


一方、ド・サッシーの訳には下記の記載がみられる。

Ce docteur, ainsi que nous l'avons ouï dire, exerçoit la charge de vérificateur des décisions juridiques, emploi qui existoit alors à Aden. On presentoit toutes les décisions juridiques à celui qui était revêtu de cette charge : quand il les approuvoit, il ecrivoit de sa main, au bas de la décision, 'sahha' [vu bon]; et quand il trouvoit qu'il y avoit quelque chose à réformer, il en faisoit l'observation. (de Sacy. p.417) *3

(訳:我々が聞くところによると、この博士は当時のアデンにあった、法的決定を監査する職に雇われていた。すべての法的決定がこの職の責任の下で執り行われた:彼がそれを承認したときは、彼自身がその決定に「sahha (=正しいようだ)」と書き添え、修正すべき部分を見つけたときには、彼自身の見解を記した)

訳の後半は、ムフティーの職務全般についての解説のようだが、これに該当する内容はガランの抄訳には見られない。アラビア語原文に実際どう書かれているかが確認できてないが、ド・サッシーは解説を加える際には脚注や括弧書きを利用していることと、ガラン訳はあくまで抄訳なので、ガランが省略した可能性は考えられる。ただしイスラム社会において、時代や地域が変わったとしても「ムフティー」という存在を人々が知らないとも思いにくく、わざわざアラビア語の文書において「ムフティー」についての細かい説明をしなければならなかった理由がよくわからない。


上述のように、イスラム共同体におけるムフティーは、求める者に対してはファトワを与える社会的責任を負っていたというのが一般的だろう…それがムフティーの社会的な役割であり、同時に彼自身の宗教的な修養につながる行為でもあったからだ。しかしド・サッシーの訳文は、彼が誰かに雇われる形で仕事を受け持っていた (= emploi)ことを感じさせる。その「雇用主」が誰かについてこの記述からは読み取れないが、アデンの町を代表するような有力者であり、ガランが"Prince"と訳したのがその人物なのかもしれない。


この部分に関して、ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』では、ザブハーニーの仕事を「ファトワの検閲官」と訳している。通常、ムフティーの役割はファトワ(法的文書)を発行することであるが、これらの記述をそのまま受け取るならば、当時のアデンにおいては、法的文書を発行する別の誰かがいて、それをザブハーニーがさらに監査/検閲していた、ということになる。ここにも何か奇妙な違和感がある。

通常であれば、最初からムフティーであるザブハーニーがファトワを発行するのが本筋だろうし、あるいはイスラム法を熟知したムフティーのみがファトワを発行できるのだから、それをザブハーニーがわざわざ監査/検閲する必要はないのではないか。そもそもムフティーは、特定の時代や地域に、一人いるかいないかといった具合の、きわめてまれで、貴重な地位であったと考えられ、この時代のアデンにザブハーニー以外にも別のムフティーがいたというのは少し考えにくい。

一つの可能性は、ムフティーではない何者かが、何らかの「法的文書」を発行しようとして、学識豊かなザブハーニーを雇い、その文書の監査と検閲を任せたのではないか、ということである。ここで再び、ムアヤドらが「自らの後継者としての正統性を立証しようとしていた」ことが想起される。つまり彼らラスール朝の"王子"(=王位請求者)が、アデンを治めるために必要な何らかの法的文書を書くにあたって、学識豊かなザブハーニーにその監査/検閲を依頼したことで、ザブハーニーが実質的に「アデンのムフティー」という立場になったのかもしれない。スルタンの後継者を巡って、さまざまな混乱が耐えなかったこの時代だからこそ、一般的とされるムフティー(=多くは権威あるウラマーでもあった)の姿との「微妙な違い」や「奇妙な違和感」のある事態が生じていたと考えられないだろうか。


一方、15世紀末になってこの地方を訪れ、人物伝を記したサハーウィーの記録には、ザブハーニーがムフティーであったという記録はなく、隠匿的な生活を送っていたことが記されている。このこともガランの記した「王子の権威によって、ムフティーであった」ということと関連しているかもしれない。ラスール朝の王位請求者たちが表舞台から去り、ターヒル朝が成立して学問の中心がザビードに戻ったことで、ザブハーニーにムフティーとしての法的見解を求める人がいなくなったのではないだろうか……そしてその隠匿的な暮らしから表立って人前に出ることも少なく、15世紀末頃には彼がムフティーとして活躍していたことを知る人が、既に少なかったのかもしれない。

*1:イスラーム法学においては、クルアーンハディースの知識に通じ、それらの内容に基づいて物事の合法/違法を判断する法的推論(イジュティハード)を行うことができる人物を「ムジュタヒド」と呼び、その中でも特に公的活動のためにイジュティハードを行える公正さを持つことが、ムフティーの条件とされる(ワーエル・B・ハッラーク『イスラーム法理論の歴史』黒田壽郎訳、書肆心水、2010年)

*2:http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=Qb8-AAAAcAAJ&pg=PA17#v=onepage&q&f=false

*3:http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=qLVhAAAAMAAJ&pg=417