合法と違法


さて、この「合法/違法」を判定する法的根拠(法源)は、イスラムの宗派によっても異なる。一般に、スンナ派(イエメンのラスール朝ターヒル朝なども含まれる)の場合は以下の4つがその法源として紹介されることが多い。

  1. クルアーンコーラン
  2. スンナ(慣行)
  3. イジュマー(意見の一致)
  4. キヤース(類推)

この4つを法源とする考えは、8-9世紀の法学者アル=シャーフィイー(767-820)によって整理され、その没後、彼を祖とするシャーフィイー学派が成立した。その後、シャーフィイー派とそれ以外の法学者の論争から、彼よりも前の時代の人物であるアブー=ハニーファ(767年没)と、マーリク・イブン・アナス(711-795)の法理論に基づくハナフィー学派マーリク学派が生まれ、それぞれアッバース朝の中心であるペルシアなどの諸地域と、および預言者の故郷であるマディーナやマッカでの慣習(ウルス)を認容する方針での法理論を展開した。さらにその後、アフマド・イブン・ハンバル(855年没)の理論に基づき、クルアーンハディースとして明文化された法源を重視するハンバル学派が成立した。このハナフィー、マーリク、シャフィーイー、ハンバルの四つがスンナ派の四大法学派と呼ばれる。

クルアーン

クルアーンは、神が預言者を通じてイスラムの民に伝えた「神の言葉」そのものであり、イスラム教における絶対の聖典である。神は(預言者の出身であるヒジャース地方の)アラビア語預言者に語りかけて啓示を与え、それを預言者が彼の教友や信徒であるアラブ人たちに口頭で伝えた*1。人々はそれを暗記し口伝で伝承していったが、まもなく彼の信徒らが迫害、虐殺されていったため、神の啓示を形に残すべく、書物の形にまとめられて行った。特に預言者の没後には、伝承者や地域による差違が生じ始めたため、650年頃に三代カリフであるウスマーンが命じて一冊の「正典」が定められ、それ以外の版は破棄された。

イスラム神学上、クルアーンは「神の言葉そのもの」であり、神自身に由来するものであるため、他の「神の被造物(神に作られたもの)」とは別格のものと位置づけられる*2クルアーンは「完全なもの」であり、その中にイスラム教徒が従うべきすべての事柄が包摂されているとされる。この中には500を超える法学的な内容が含まれており、それらは最も重要かつ他の要素に優先される、第一の法源(法的根拠)となる。

スンナ

クルアーンには、この世の万物に関する絶対の「正しい答え」が包摂されているものの、人々の間で実際におきる諸問題のひとつひとつにそのまま適応できるような形で書かれているとは限らない。このような問題に対処する場合、人々は預言者の言動から、もっと具体的な事例を読み取ることができると考えた。預言者は神の意志に従って行動していたため、彼の言動に倣って振る舞えば神の意志に背くことはないからだ。

このような預言者の言動は、スンナ(慣行)と呼ばれ、クルアーンに次いで重要な、第二の法源とされた。クルアーンには「預言者が間違った言行をすることはなく」「信徒は預言者に従うよう」書かれており、かつ「クルアーンに書かれていることは正しい」ということから、クルアーンを土台として、スンナの正統性が導きだされる。


初期のクルアーンが口伝であったように、預言者のスンナも当初は彼と行動を共にした教友らによって伝承された。それらの伝承を収集し、文書としてまとめたものが「ハディース」と呼ばれる預言者の言行録である。預言者のスンナは、ハディースのテクストの中に包摂されている。また初期のクルアーンがそうであったように、ハディースもまた伝承されていくうちに、伝承者や地域ごとのバリエーションが生じ、さらには出所不明の伝説の類いまでが混在するようになった。このため初期のイスラム法学では、伝承として収集されたハディースの真偽を検証する「ハディース学」が重要視された。ハディースクルアーンについで重要な法源であるが、そこに集成される伝承や解釈には、宗派や学派ごとの違いも見られる。


ハディースには、その内容…すなわち預言者の言動そのものを示す文章(マトン)とともに、その伝承がどのように伝えられたかという「伝承の鎖(イスナード)」が付属する。イスナードは、現在に伝わるその伝承が、誰から誰へと言い伝えられたかを示すものであり、最終的にはそれが預言者本人や教友の時代まで繋がっていく必要がある。またその伝承を伝えたとされる人物が、信徒としても学者としても信頼できる人物であることも重視される……ここでアブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』の文中で、彼が引用した人物の名前に、やたらと「神学に秀でたことで有名な」とか「非常に敬虔な」などが付けられていたことも思い出されるだろう。あの過剰とも思える人物紹介も、イスラム法学における信頼性の担保を意図した記述だと理解できればうなずける。

イジュマー

クルアーンハディースの二つのテクスト化された法源に、直接の答えが見いだせない場合、法学者は別のなにかから答えを導きださなければならない。そのような場合、第三の法源となるのが、イジュマーイジュマーウ、意見の一致/コンセンサス)である。ある事柄に対して、イスラム共同体を構成する有識者全員の、誰からも異論が出ない場合には「意見の一致」が成立するという考え方である。裏を返せば、誰か一人でも異論を唱える者がいれば成立しない。また判断を下すために専門知識を必要とする分野に関しては、その分野に関わる学者(ウラマー)の間で意見の一致が得られれば十分とされ、この場合を「イジュマアウラマー(学者たちの意見の一致)」と呼ぶ。


共同体内で「反論の余地がない、見解の一致」を法源の一つとすることは、イスラム以前の諸部族で普遍的に見られたルールでもあった。イスラム社会においては、クルアーンの一節*3や、ハディースにある「私の共同体は、誤りに意見が一致することはありえない」などの預言者のスンナを土台として、イジュマー法源としての妥当性が保証されている。


ただしイジュマーに基づく合意の形成には、いくつかの問題が発生する。特に、強大なイスラム王朝が形成されて支配地域が拡大すると、元々の習慣が異なる地域の人々の間で、どこまで「意見の一致」が可能かということは重要な論点の一つになった。シャーフィイー派が原則として、イスラム共同体全体としての「意見の一致」を提唱したのに対し、ハナフィー派やマリーク派は、それぞれ限定された地域での適用に寛容であったようだ。

キヤース

クルアーンハディースに直接の答えがなく、またイジュマー(意見の一致)が得られなかった場合の解決法の一つがキヤース(類推)である。例えば「クルアーンにおいて葡萄酒(ワイン)が禁止されていることから、同じようにヒトを酩酊させるナツメヤシ酒についても(明示されてはいないが)同じように禁止される」というような推論が、これに相当する。


キヤースを法源として用いることは、イスラム法学において非常に多くの論争を巻き起こしてきた。クルアーンハディースなどのテキストをそのまま解釈するのに比べて複雑になり、類推の過程の妥当性が問題になりがちで、しばしば法学者自身の見解が紛れ込みやすいからだ。キヤースが法源の一つだと初めて積極的に主張したのはシャーフィイーであるが、これは彼の時代には、法学者が自分の私的見解(ラアイ)に基づいて判決を出すことが多かったためである。シャーフィイーはキヤースを認める一方で、キヤースは「クルアーンハディースから導き出されるものだけに限定される」ということを強く主張し、法学者が恣意的な判決を出すことを批判したのである。

それ以外の法的根拠

以上の四つがイスラム法学における基本的な「法源」であるが、これ以外にも学派や場合によって実質上の法源になるものはいくつか存在する。ただし、基本的にスンナ法学派では、以下のものは法的推論(イジュティハード)を行うための「方法」として位置づけることが多い。

  • イスティフサーン(情状酌量):まだ啓示のテキストに従うことが重視されていなかった時代、アブー・ハニーファに代表される、いわゆる初期ハナフィー派では「法学者の好みによる選択」により判決を出すことがあった。例えば、ある人の死が長く知られていなかった場合に、遺族がその遺産の権利を失うことなどは、これに該当する。これをシャーフィイーは私的見解(ラアイ)として批判し、後の多くの法学者も同様に批判したが、9世紀以降のハナフィー派はイスティフサーンという法概念で説明するようになった。それに伴いイスティフサーンにおいても、テキストに根拠を持たないものは排除され、キヤースと密接に関連するようになった。キヤースを外的なものとすれば、イスティフサーンはその内的部分に当たるとされる。ハナフィー派やマーリク派はこれを認めたが、シャーフィイー派は否定的であった。
  • イスティスハーブ(継続性の推定という原理):先の「行方不明者に対して、その遺産相続を主張することができない」という例をハナフィー派やマーリク派はイスティフサーンによって解決したが、イスティフサーンを認めないシャーフィイー派はイスティスハーブという原理で説明した。行方不明の人物については、彼が死んでいるという証拠がない限りは、生きているという推定がなされる。もし彼が死んだという証拠が示されるか、人が生存するには長すぎる時間が経過すれば、遺族への相続が行われる。このように、状況が変化したという確たる証拠がない間は、状況は前のまま継続していると推定するのがイスティスハーブという考え方である。これは単に推定の原理の一つであって、法的推論の方法としての資格を持つとは言いがたいが、後世の学者らによって、しばしばイスティフサーンやイスティフラーフとともに論じられた。
  • イスティフラーフ(公共利益に基づく推論):アル=マサーリフ・アル=ムルサラ(公共利益)とも呼ばれ、初期マーリク派によって支持された。その例としては、不信心者の軍隊が多数のイスラム教徒を捕えて、彼らを盾にして使う場合が挙げられる。捕えられた人々には死刑に値するような罪はないものの、彼らを犠牲にしなければ、イスラム共同体全体が全滅してしまうような場合、公共の利益を優先する判断が可能だとされた。
  • マズハブ・サハービー(教友たちの見解):サハーバ(教友)とは、預言者と同じ時代を生きた信徒らであり、預言者と共により近く接していた彼らの言行はしばしば法源に含められる。ハナフィー派では、クルアーンとスンナに次ぐ法源として採用し(その次にイスティフサーン)、マーリク派ではハディースの真正なテキストが得られない場合にはサハーバの見解を採用した。ハンバリー派もクルアーン、スンナについで、サハーバの見解を重視しており、シャーフィイー派だけがこれを法源とすることに否定的であったようだ。
  • ウルフ(慣習):特にイスラム教を受容する以前の、部族の慣習を意味し、ハナフィー派ではキヤースよりも重視された。

*1:預言者ムハンマドが文盲であったためとされる。

*2:他方、8-10世紀に隆盛したムータジラ派は、クルアーンもまた神によって作られた被造物の一つだという「創造されたクルアーン説」を唱え、クルアーンを神の言葉そのものとする伝統主義と対立した。ムータジラ派は人の知性と理論を重視する徹底した理知主義であったが、彼らの主張はクルアーンの絶対性を縮小することで、自らの権力拡大を目指したカリフらにも利用された。これに対して、クルアーンの絶対性を支持する伝統主義者が反発し、最終的に伝統主義が勝利をおさめたことでムータジラ派は衰退した。後述のシャーフィイーは、初期ムータジラ派と伝統主義の対立が生じていた時代の人物で、この対立に対して折衷的な立場であったとされる。

*3:第4章115節「導きが示された後で預言者に反対し、信者たちの道以外の道に従った者に対しては、われわれはその者自身が選んだ道を選んで、その旅路の哀れな結末である地獄をその者に見せつけてくれよう」(ハッラーク/黒田 p.115)