『医学典範』における「ブンクム」

ここでもう一度「ブンクム」の記述を見てみよう。

その性状は第一に、熱にして乾である。他の者によれば第一に冷である。それは四肢を強化し、肌を清め、肌の下の湿気を乾かす、そして全身に素晴らしい香りを与える

イブン・スィーナーは、ブンクムの性状を第一に「熱にして乾」としている。これは「冷にして湿」に傾いた病態に相対する。実際「湿気を乾かす」という記載が見られるが、それだけでなく「肌を清め、肌の下の湿気を乾かす」と書かれている点は非常に興味深い。イブン・スィーナーは疥癬を漿液および憂液の異常による「冷・湿」と「冷・乾」の性質を持った丘疹としているが、(1) ヒゼンダニによる疥癬が「湿瘡」とも呼ばれること、(2) 疥癬が一見して判る皮疹を伴う(肌が汚れる)こと、(3) ヒゼンダニが「皮膚の下の」疥癬トンネルで患部を広げること、(4)乾燥に弱いこと、などを合わせて考えると、このブンクムの効用は疥癬の治療に合致すると解釈することが可能だ。またブンクムが「全身に素晴らしい香りを与える」ことも、イブン・スィーナーが疥癬に「尿の悪臭を伴う」と書いている点と相対しそうだ。


イブン・スィーナー自身は疥癬の治療にイオウやコロシント油、ザクロ皮などを局所に塗ることを薦めており*1、ブンクムを適用することについて一切触れてはいない。しかし、このブンクムの性状に関する記述を読んだ者が、疥癬の治療に結びつけた可能性は十分考えられるだろう。

モカで流行した疥癬の流行をコーヒーが癒した」というキャーティプ・チェレビーの『世界の鏡』の伝承が、どのような経緯で生まれたものなのかはわからないが、ひょっとしたらモカの周辺に暮らしていたウラマースーフィーの中にたまたま『医学典範』に通じていたものがいて*2モカの疫病を救ったのかもしれない。あるいは、ひょっとしたら史料には残ってないが民間療法的にずっと言い伝えられていたものかもしれないし、本当に偶然ウサブ山のスーフィーを訪れたモカの住人が見つけたものかもしれない……それにそもそもこれは「伝承」であり、史実に基づくものかどうかもわからないのだが。

*1:Cyrus Abivardi, p.481

*2:あるいは後述のようにザブハーニーがそれを見いだし、その後の時代に、モカの伝説が後付けで作られた可能性もありうるだろう。