考察

「コーヒーやカフワのはじまり」を考えるには、必ず「それがどういうかたちでの利用だったか」ということをあわせて考える必要がある。

  1. コーヒーの実や種などを生活儀礼で使用
  2. コーヒーの種の薬用
  3. コーヒーの実や種(キシル、ブン)の食用(食料や嗜好品として)
  4. カートやコーヒーの葉から作るカフワの飲用(嗜好品、スーフィーの飲み物として)
  5. コーヒーの実(キシル)、実と種(ブン)から作るカフワの飲用(スーフィーの飲み物として)
  6. コーヒーの種から作る、現在の我々が飲む「コーヒー」

これらの利用形態のうち、おそらく(1)から(4)までが、コーヒーの原産地であるエチオピア西南部で、原住部族たちがもともと用いていた「始原的な利用形態」だと考えていいだろう。


このうち、儀礼的な利用(1)についてはエチオピア西南部以外にはほとんど広まらなかった*1

種の薬用(2)については、アッ=ラーズィーやイブン・スィーナーの言う「ブン」や「ブンクム」が、本当にコーヒーかどうかには異論もあり、今となっては検証も難しい。しかし、彼らの文献より早い時期に、キリスト教徒やイスラム教徒がエチオピア内陸部に到達して、原住部族を奴隷として紅海沿岸部やアラビア半島に連れ出していたことを考えると、彼らのいう「ブン/ブンクム」が「コーヒーの種」であった可能性は、それなりに高いと考える。10-11世紀にアラビア半島からペルシアにまで、コーヒーという「くすり」の存在が知られていた可能性がある。


実や種の食用(3)は、現在もエチオピア西南部にも見られ、コーヒーの飲用よりも先に広まっていたことが伺える。ザブハーニーが「アジャムの地」で目撃したのも、原住民が食用とするところであったと言われるし、マッカにおいても飲用よりも古くからこうした利用法がされていたことが、アブドゥル=カーディルの文献から伺える。この利用は、早ければ上記の薬用と同時期、10-11世紀には既にイエメンに伝わっていた可能性があるが、もしそうだとしても史料に残っていないことから、それほど多くの人々に行われていなかったと考えられる。もう一つの可能性は、14世紀のエチオピアでのキリスト教国の侵攻によって、沿岸部へ逃れてきた西南部の人々が「アジャムの地」へ、そしてイエメンへと伝えた可能性が考えられる。


カートやコーヒーの葉から作るカフワ(4)も、これとほぼ同時期、14-15世紀に紅海沿岸部に伝えられた可能性があるだろう。コーヒーの葉から飲み物を作って飲む風習は、現在イエメンでは見られないものの、エチオピアではハラーなどで見られるほか、西南部のマジャンギル族が行う「カリオモン」に認められ、嗜好品であると同時に部族内での親交を深める社交的な意味も持っている。現在のイエメンにおいて、カートはコーヒーを凌ぐ嗜好品であり、また社交の場に欠かせないものである。アブドゥル=カーディルは、モカ守護聖人、アリ・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーが最初に広めたカフワが、このタイプであった可能性を指摘している。実際に、シャーズィリー教団によって広められたのか、あるいはアル=ジャバルティーによるものなのか、もしくはイエメンまで逃れてきたイファトの残党が伝えたのか…いろいろな可能性が考えられるが、いずれにせよ、イエメンのスーフィーたちが初期に使っていた「カフワ」は、こちらのタイプ(4)であり、コーヒーの実や種子を使う飲み物(5)ではなかった可能性は高い。


そして、コーヒーの実や種子を使う飲み物(5)…これがアブドゥル=カーディルの言うところの「カフワ」そして「コーヒー」の、直接のルーツだと考えられるが、これはイエメンにおいて考案された可能性が高いだろう。考案したのは、ウサブ山のスーフィーたちか、ザブハーニー(の提案を受けたスーフィー)であった可能性があり、15世紀頃のことだと思われる。ただしアブドゥル=カーディルが留保しているように、当時のエチオピアにこうした利用法があった可能性も否定はできない。

ただし、いずれにせよ、ザブハーニーが「公認」したのはこの2つのタイプのカフワ…キシルのカフワとブンのカフワ…であり、これがやがてマッカやマディーナに広まり、そしてアブドゥル=カーディルが過ごした16世紀後半のカイロにも伝わり、この当時、イエメンからアラビア半島、カイロに至る広いエリアで、この2つのタイプのカフワが飲まれていたことになる。

*1:ただし、ビクトリア湖周辺のハヤ族などはロブスタコーヒーを嗜好品だけでなく儀礼に用いており、コーヒーノキは王から臣下に下賜される。北アフリカから南下して牛耕を伝えた部族がハヤ族の王族のルーツだと言われており、彼らはエチオピア西南部のコーヒーノキそのものは伝えなかったものの、儀礼的な利用という風習を伝えてきた可能性があるだろう