ラスール朝とマッカをつなぐ「1454」

1454年に、アデンを去ったマスウードはハルカーの長老に保護され、その後、ザビードに入って再起を誓い、再びタイッズに攻め入ろうとしたものの、その途中のヘイズに着いたところで考え直し、そのままマッカに向かった。そしてマムルークのスルタンに庇護されて、イエメンに戻ることなくその生涯を終えた。すなわち、彼は1454年から「アデン→ザビード→ヘイズ→マッカ」という道のりで移動したことになる。

もし、このとき既にアデンやザビードでコーヒーの利用が普及しており、彼または彼と同行した人物の中にその利用に親しんだ者がいたならば、エスコリアル修道院の文書に書かれているように、「1454年にイエメンからマッカにコーヒーが伝わった」ことになるかもしれない。つまり「ラスール朝の最後のスルタンがイエメンからマッカに逃亡するとき、マッカにコーヒーをもたらした」可能性がある……ただしこれも「物語としては面白いけど、可能性は疑わしい」部類のお話かもしれないが。


また1454年には、もう一つ大きな「イエメンからの人の移動」があった。ザビードの奴隷たちだ。ターヒル家のアリーとアーミル兄弟がアデンを制圧した後で、次にザビードにやってくるという噂が流れた。この噂を聞いた奴隷たちのうち、反ターヒル派のグループは、塀を乗り越えてザビードから逃げ出したと伝えられている。彼らが一体どこへ逃げたかはわからない。しかしマスウードがそうしたように、彼らの一部が逃亡先としてマッカを選び、そこに定住するようになったとしても、それほど不思議はないだろう。

ひょっとしたら、1454年にはイエメンからマッカに移住した者たちが大勢いて、当時のマッカの史料に記録が残るような大きな事件だったかもしれない。ならば、アブドゥル=カーディルが1557年に『コーヒーの合法性の擁護』の「初版(とド・サッシーが推定する版)」を書いたとき、この「イエメンからマッカに大勢の人がやってきた年」、すなわち1454年を、コーヒーがマッカに導入された年だと推定したとしても不思議はない。実際、マッカやカイロにおいて、最初期のコーヒー利用は、イエメン人たちの共同体の中で行われていたと記録されている。


この「1454年にマッカにコーヒーの利用が伝えられた」という記述は1587年に書かれた「第二版(とド・サッシーが推定する版)」には認められず、アブドゥル=カーディルはマッカへの導入について、1530年頃に書かれたイブン・アブドゥル=ガッファールや、アル=マッキーの『コーヒーの勝利』を引用しながら、ヒジュラ暦9世紀末から10世紀最初の10年くらい(=西暦1495-1505年)頃だと推定している ……だとすればアブドゥル=カーディルは、初版以降の30年の研究の結果、1454年のイエメンからマッカへの大量移住のときには、まだ「彼の考える形での」コーヒーの利用が入ってきていない…少なくとも「入ってきたと断定できる証拠がない」という結論に達したとも解釈できるかもしれない。


ここでもう一つ注目すべきは、アブドゥル=カーディルがその著書中で「コーヒーの実や豆(キシルやブン)を利用すること自体」と「それから作られるカフワ(=飲み物としてのコーヒー)の利用」をはっきり区別しようとしており、「混同しないように」と何度も注意を呼びかけている点である。15世紀初頭に、ザビードの奴隷たちの間で最初に普及したであろうコーヒーの利用法は前者であり、様々な利用形態でもっぱら嗜好品として用いるものであったと考えられる。これに対して、アブドゥル=カーディルが「合法」として擁護するコーヒーの利用法は後者である。それは15世紀後半にイエメンのアデンでザブハーニーが是認し、15世紀末から16世紀初頭にマッカに、そして16世紀初頭にはカイロにまで伝わった、と位置づけられる。ひょっとしたら、初版を書いた当時の調査ではアブドゥル=カーディル自身が「混同」してしまっており、その反省から第二版ではより綿密な調査を行ったのかもしれない。


つまり、この「1454年」には、イエメンからマッカに「コーヒーの実や豆を利用すること」が伝わった可能性はあるかもしれないが、もしそうだとしても、それはおそらくそのまま噛んだり食べたりする初期の利用法であり、「飲み物としてのコーヒー」が伝わるのは1495-1505年頃になってからだと考えた方が無難だろう。