ザブハーニーの経歴を考える

アル=ジャバルティーザビードで活躍したのは1380年代-1403年の間だと考えられる。したがってアル=アダニーその教えを受け、かつ1425年までにムフティーのような重職に任じられる者がいたならば……生年としては1370-80年頃であろうか? それならば10-20代の若い頃にアル=ジャバルティーから教えを受け、40-50代に重職についたというならば、さほどおかしな話ではないだろう。ここでアル・アダニーとザブハーニーの経歴に立ち返り、いくつかの仮説を上げて、今回のまとめとする。

怪しい仮説その1

比較的シンプルな考え方は、ややこしいイスラーム百科事典の記述など無視してしまうことだ。前回までに考察した分でまとめるとこうなる

  • (1380-1425年、ザビードスーフィズム流行)
  • 1400頃、ザブハーニー、ザブハーンの村で生まれる
  • 1410-20頃、ザブハーニー、アデン(またはザビード)で勉強し、アデンで法学者となる
  • (1420-24年、スルタン、アッ=ナースィル・アフマドの圧政でアデン経済が壊滅)
  • 1420-25頃、ザブハーニー、「アジャムの地」に渡って、原住民がコーヒーを利用するのを目撃
  • 1425-、ザブハーニー、アデンに帰還しスーフィズムに目覚める
  • 1425-、ザブハーニー、アデンで疥癬を発病。コーヒーを試して快癒
  • (1442-1454、ラスール朝末期の戦乱)
  • 1448-1454、ザブハーニー、アデンのラスール朝王位請求者たちに請われてファトワーの検閲者に。この頃、民衆の前でコーヒーを飲む?
  • (1454 ラスール朝滅亡、ターヒル朝はじまる)
  • 1470、ザブハーニー死去

怪しい仮説その2

イスラーム百科事典の内容を考慮に入れるなら、別の仮説がいくつか立つ。もし (1)アブドゥル=カーディルらとイスラーム百科事典、両方の史料が正しいとするならば……没年の異なる、二人の「ゲマルディイン」が存在したことになる。「一人目のゲマルディン」アル・アダニーは1425年または1438年までにアデンに派遣され、おそらくはアデンの地で、コーヒーを是認するファトワーを出した。その後、彼はアデンで亡くなった。一方、「二人目のゲマルディン」ザブハーニーは1400年頃にザブハーンで生まれ、若い頃に勉強した後、アデンで学者になった。すなわち1425年までの間のアデンで、アル=アダニーと若き日のザブハーニーが出会った可能性が出てくる。以前立てた仮説では、ザブハーニーが圧政下のアデンを離れ、再び戻ってきた可能性について論じた。またサハーウィーによれば、ザブハーニーは若い頃に熱心に勉強し、その後でスーフィーとなったという。つまり、アデンに戻ってきたザブハーニーがアル=アダニーと出会い、彼からスーフィズムを学んだ可能性がある。

  • 1370-80頃、アル=アダニーが生まれる
  • (1380-1425年、ザビードスーフィズム流行)
  • 1390-1400頃、アル=アダニー、ザビードでアル=ジャバルティーの教えを受ける
  • 1400頃、ザブハーニー、ザブハーンの村で生まれる
  • 1400-1425頃 アル=アダニー、アデンのムフティーになる。コーヒーに関する最初のファトワを出す
  • 1410-20頃、ザブハーニー、アデン(またはザビード)で勉強し、アデンで法学者となる
  • (1420-24年、スルタン、アッ=ナースィル・アフマドの圧政でアデン経済が壊滅)
  • 1420-25頃、ザブハーニー、「アジャムの地」に渡って、原住民がコーヒーを利用するのを目撃
  • 1425-、ザブハーニー、アデンに帰還し、アル=アダニーと出会いスーフィズムに目覚める
  • 1425-、ザブハーニー、アデンで疥癬を発病。コーヒーを試して快癒
  • 1425または1438、アル=アダニー死去
  • (1442-1454、ラスール朝末期の戦乱)
  • 1448-1454、ザブハーニー、アデンのラスール朝王位請求者たちに請われてファトワーの検閲者に。この頃、民衆の前でコーヒーを飲む?
  • (1454 ラスール朝滅亡、ターヒル朝はじまる)
  • 1470、ザブハーニー死去

怪しい仮説その3

ここでもう一つ、別の可能性についても考えたい。それはこの二人の「ゲマルディン」が同一人物である可能性だ。前回までは「1470年に死亡したザブハーニー」という前提のもとで仮説を立ててきたため、それらの一部を捨てたり、変更しなければならないが、試案するだけの価値はあるだろう。


同一人物説を考える上で大きな問題となるのは没年の違いである。しかし没年のうち、アル=ナブハーニーの言う1425年は、アッ=ナースィル・アフマドが亡くなってイブン・アラビー派が弾圧された年であり、アブ=マクマラーの言う1438年は、イブン・アラビー派のアル=キルマニーが死んでイブン・アラビー派が完全に失墜した年である。もしイブン・アラビー派の後ろ盾によって、ムフティーの地位に就いていた人物なのだとしたら、これらの出来事の後、対立する反イブン・アラビー派によってその座を追われたことは想像するに容易である。あるいは弾圧を恐れて、一時的に姿を隠した可能性もありうるだろう。そのために「行方知れず」となったことで、当時の史料では死んだものとされてしまった可能性も考えられる。仮にそうだとして、実は生き延びていたとするならば……上で仮定したように、アル=アダニーが1370-80年代の生まれで、アブドゥル=カーディルやサハーウィーが示した「1470年」が没年ならば90歳ちょっと。アブドゥル=カーディルの文献に出てくる長老、アレウィ・イブン・イブラヒムと同じくらいの年齢である。今より平均寿命が短い15世紀とは言っても、決して無理のある年齢ではない。


また、サハーウィーの文献にあるように「隠遁者で、金曜日の礼拝か、重要な人に会うとき以外は外に出ず、スーフィズムの著述に没頭していた」ということも説明がつくかもしれない。イブン・アラビー派が失脚した後、彼もまた対立する派閥からの糾弾におびえる身となり表に出なくなったとか、あるいは(この当時のイエメンの虜囚ではよくあったようだが)捕われた後、自宅で半ば監禁された状態で、監視下に置かれていた可能性もある。また「スーフィズムの著述に没頭していた」という点は、彼が没我的かつ実践的なスーフィズムの修行に励んでいたというよりは、むしろイブン・アラビーのように神秘哲学的な著作に活動の力点をおいていたようにも受け止められる。

そして「ファトワーの検閲」という職業についても、実は彼が「アデンで更迭された元ムフティー」だと考えると、意外にしっくりとくる。失脚し監視下に置かれていたものの、かつてムフティーとして勤めていたザブハーニーには、ファトワーを検閲できるだけの経験と学識があった。そのためアデンの人々や、あるいはラスール朝末期の王位請求者たちは、彼にファトワーの検閲官という、持って回ったような役どころを与えたのかもしれない。

  • 1370-80頃、ザブハーンの村で生まれる
  • 1380-90頃、ザビードで学問に励む
  • (1380-1425年、ザビードスーフィズム流行)
  • 1390-1400頃、アル=ジャバルティーからイブン・アラビー派のスーフィズムを学ぶ
  • 1390-1420頃?、短期間教師を勤める
  • 1390-1420頃?、アジャムの地に渡り、原住民がコーヒーを利用するのを目撃
  • 1415-1425頃、ザブハーニー、アデンに戻る。疥癬を発病。コーヒーを試して快癒
  • 1415-1425頃、アデンのムフティとなる。コーヒーを是認する最初のファトワを発行
  • (1420-24年、スルタン、アッ=ナースィル・アフマドの圧政でアデン経済が壊滅)
  • 1425/1438頃、イブン・アラビー派の失脚に伴い失踪、あるいは監視生活に。
  • 1440-1470頃?、アデンで民衆の前でコーヒーを飲む
  • (1442-1454、ラスール朝末期の戦乱)
  • 1448-1454、ラスール朝王位請求者のためのファトワの検閲官に。
  • (1454 ラスール朝滅亡、ターヒル朝はじまる)
  • 1470 アデンにて死去


さて、今年の一月からはじめた、この「はじまりの物語」も、やっとザブハーニーまで到達した。これでほぼ終わりであるが、次回は、全体の流れを総括することにしよう。