ジャマールッディーンとスーフィズム


ザビードにおけるスーフィズムの歴史で注目すべきは、7代スルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールI世がアル=フィールザバーディーを大カーディーに任じてから、8代スルタン、アッ=ナースィル・アフマドが死ぬまでの30年間の間、すなわち1395-1424年に、親スーフィー派のウラマーもしくはスーフィーたち自身が、イエメンの学者たちの権力の中心にいたということである。


アル=アダニーにしてもザブハーニーにしても、どちらも「スーフィーにしてムフティー」という、一見矛盾した立場を解くカギが、ここにもあるかもしれない。以前、ザブハーニーについては、この矛盾を説明するために「ラスール朝末期の混乱時に、王位請求者の一人がムフティーに任命した」という仮説を立てた。もう一つの可能性として、イブン・アル=ラッダードが「スーフィーにして大カーディー」であったこの時代であれば、本来ならば「荒野で修行する反権力的宗教者」であるスーフィーが、伝統的スンニ派の学者で栄えたラスール朝において、「公正さを認められた卓越した法学者」であるムフティーとして認められた可能性も十分考えられる。

エリックが引用したアル=ナブハーニーの文献によれば、アル=アダニーはアル=ジャバルティーの弟子の一人であったことが記されている。しかし、上に示したようなイブン・アラビー派の史料には、残念ながらアル=アダニーのものと思われる名前はないようだ。このことから、アル=アダニーはイブン・アラビー派の中では*そこまで*の重要人物ではなかったと推測される。ひょっとしたら、大カーディーに就任したアル=フィールザバーディーやイブン・アル=ラッダードが、派閥固めのために、自分たちと同じイブン・アラビー派に属する学者を各地に派遣していたかもしれない。このときアデンに派遣されたのがアル=アダニーであったのかもしれない。ただし、この当時の「論争/政争」の中心はザビードやタイッズであり、商業都市であったアデンでどういう学者らが活躍していたか、よくわからない。