シャイフ・ウマルの足跡

話をシャイフ・ウマルに戻そう。彼の行動は「ダルヴィーシュ」そのものであると言えるだろう。

  • 彼は(フマイザラの)「アッ=シャーズィリーの奇跡の水」を携えて、モカの地に船でやってきた(=放浪の末に来訪)。
  • 彼はモカの町の外に小屋を建てて暮らし(=俗世を離れて修行)、モカを襲った疫病から人々を救った(≒奇跡=現世利益)後、モカを離れた。
  • その後、彼はウサブ山という荒野で弟子たちと暮らすようになる(=教団化し荒野での修行生活を送る)。
  • そこにモカの住人が訪れ(=都市居住者が加わる)、モカを襲った疫病から人々を救う(=現世利益を授ける)。
  • 彼はモカの町に受け入れられ、彼のための安息所が作られる(=都市での活動拠点ができる)。


…こうしてみるとシャイフ・ウマルのエピソードは、一つのスーフィー教団がモカの町で普及する過程を、そのまま示しているようにも思われる。


この当時、ラスール朝時代のモカがどのような状況にあったのかを示す史料は、残念ながら見当たらない。モカが発展したのは16世紀以降のことであり、それ以前の文献などにはその名前はほとんど出てこないようだ。それはすなわち、この時代のイエメンをおさめていた王朝にとっては、モカが重要な場所ではなかったことを意味している。ただしティハーマ地方の例に漏れず、この地方を治める小さな部族がいたとしても不思議はない。シャイフ・ウマルが関わったのは、モカ近隣に暮らすティハーマの諸部族の一つであり、彼がその部族を巻き込んだ「布教」に成功したことを暗示している。

また彼がスアキンから船でやってきたというエピソードは、当時のエジプトの交易商であるカーリミー商人との繋がりも連想させる。少なくともそうした商船の一つに便乗して、モカに到達したのだろうと考える。


シャイフ・ウマルの伝説において、我々にとっての最大の関心事は「コーヒーの発見と利用」である。ユーカース『オールアバウトコーヒー』では、ウマルが小鳥に導かれ奇跡的にコーヒーを見つけた様子が書かれているが、『世界の鏡』にはそんな描写はない。「ウマルが追放されたウサブ山にはコーヒーくらいしか食べられるものは生えていなかった」と、実にあっさりしたものである。

しかしこれは非常に興味深い記述である。というのは、シャイフ・ウマルが追放された当時の「ウサブ山」には、当たり前のようにコーヒーノキが生えていたことを示しているからだ。


まず、この「ウサブ」とはどこを指すのか? おそらくザビードの東から北東に当たる山地を指すものと考えて間違いないだろう。現在この地域には「ウサブ・アル・アリ Wusab al Ali」「ウサブ・アル・サフィル Wusab al Safil」という地区がある。

また、キャーティプ・チェレビーの時代(17世紀中頃)の、イエメンのコーヒー産地について、ラテン語版"Gihan numa"では以下のように触れられている

イエメンには二箇所のコーヒーの産地がある:ザビードから昇った山からベイト・アル・ファキーフに向かい合う地域と、ニハリ*1の地域であり、どちらも近くにあるジーザーンの港から積み出される。

さらに、ド・サッシーの脚注中の訳文では前者の地域を指して「Ousab」と付け足しているようだ。


だがこうして実際に地図で確認すると、どこか奇妙な印象を禁じ得ない。

シャイフ・ウマルの伝説によれば、ウマルはモカの族長に追放されて、ウサブ山で暮らすようになった。だがモカからウサブ山まではかなりの距離があり、もっと近場にタイッズ南部の山々がそびえ立っている。

さらにラテン語版"Gihan numa"によれば、この「ウサブ」はモカの住人の耕地の一部と書かれている。ド・サッシー訳には「耕地の一部」という記述はないようなので、こだわる必要もないかもしれないが、当時はおそらくティハーマの小さな部族の一つに過ぎなかったモカの人々が、ウサブ山までその生活圏の一部にしていたとも考えにくい。


ここで前段で述べた彼の足跡を、もう一度、別の切り口で並べてみよう。

  • 彼は(フマイザラの)「アッ=シャーズィリーの奇跡の水」を携えて、モカの地に船でやってきた(=放浪の末に来訪)。彼はモカの町の外に小屋を建てて暮らし(=俗世を離れて修行)、モカを襲った疫病から人々を救った(≒奇跡=現世利益)後、モカを離れた。
  • その後、彼はウサブ山という荒野で弟子たちと暮らすようになる(=教団化し荒野での修行生活を送る)。そこにモカの住人が訪れ(=都市居住者が加わる)、モカを襲った疫病から人々を救い(=現世利益)、モカの町に彼のための安息所が作られる(=都市での活動拠点ができる)

このように途中で切って二つに分けると、この二つのシーケンスがそれぞれ独立しても成り立つことが分かる。最初にフマイザラからモカにやってきたシャーズィリーヤ教団のスーフィーと、ウサブ山で修行した後モカに広めたスーフィーは、同一人物でなくても話は成立する。むしろ話の後半だけを見る方が、スーフィー教団が民衆に普及する展開にぴったり合うことに気付く。

つまり『世界の鏡』に見られるシャイフ・ウマルの伝説は、(1)アッ=シャーズィリーの死を看取った弟子(おそらくアル=ムルシ)、(2)フマイザラからモカにやってきたスーフィー、(3)ウサブ山で修行した後モカに広めたスーフィー、という、少なくとも三人の、おそらくいずれもシャーズィリーヤ教団に属するスーフィーの話が合成されている可能性が考えられる。


なぜ(2)と(3)のスーフィーの話が結びつけられたのか。それはこの話が、モカとコーヒーの起源を結びつけるものとして語り継がれたからだろう。モカの港は、特に17世紀頃からコーヒーの積出港として世界に知られるようになったが、それはモカが西欧諸国への窓口であったためである。イエメン国内では、大きな市場があって栄えていたベイト・アル=ファキーフの町が、モカと並ぶコーヒーの取引場であり、そこからジーザーンなどを介してイスラム圏に輸出されていた。

いわばモカとベイト・アル=ファキーフの人々は、コーヒー取引を巡るライバル同士の関係にあったと想像される。そして(3)のスーフィーの物語の舞台であるウサブ山は、モカよりもザビードやベイト・アル=ファキーフに近く、人々はそちらが「本家」だと考えたのだろう。そこでモカの人々は、(3)のスーフィーと、より古い時代にモカの近くで暮らしていた(2)のスーフィーの話を結びつけ、二人が同一人物であるとすることで、自分たちの町と「コーヒーの起源」を結びつけたのではないだろうか。


シャイフ・ウマルの伝説が、もしキャーティブ・チェレビーが記したとおりに、アッ=シャーズィリーの弟子に当たる一人の人物だけを指すのであれば、アッ=シャーズィリーが没した1258年からさほど遠くない時代には、ウマルがウサブ山に生えていたコーヒーと出会っていたことになる。しかし、1330年にイエメンを訪れたイブン・バットゥータは、明らかにザビードからイッブやタイッズに向かう、ザビード東部の山中を通っていたにも関わらず、コーヒーを目撃した記録を残していない。また14世紀半ばにラスール朝のスルタンが書いた農業指南書にも、コーヒーに関する記録はなく、これらの史料と齟齬を生じる。

だが、もしシャイフ・ウマルが、アッ=シャーズィリーの直弟子より後の時代の、何人かのスーフィーたちの話が組合わさったものだとすれば、最後の一人「ウサブ山のスーフィー」はもっと後の時代の人物であり、彼こそが「飲み物としてのコーヒー」を生み出した人物である可能性がある。


ここでもう一人、『世界の鏡』とは別のスーフィーのことが思い出される…それは、アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』で引用された、イブン・アブドゥル=ガッファールが紹介した、ザビードの長老の目撃談に登場する。当時90歳を超えていたこの長老は「若い頃、アデンでザブハーニー(とハドラミー)のところに、一人のファキールがやってきて、カフワを薦めるのを見た」と語っている。そしてザブハーニーらは公衆の面前で、そのカフワを飲んだ、と。コーヒーから作られたカフワが実際に飲用されたことの、最初期の記録である。

このとき、ザブハーニーにカフワを薦めた「ファキールダルヴィーシュ *2」の素性は不明であるし、どこから来たかもよくわからない……しかしウサブ山からはるか南の、モカとアデン、二つの港町にまで「さすらいのスーフィー」の手によって広まったのは確かだろう。

*1:「ニハリ/ネハリ Néhari」に該当する地域がどこかは良くわからない。ただし、ベイト・アル・ファキーフの北、サナアの町の西北西あたりに「バニ・アン・ネハリ」すなわち「ネハリ族(の地)」と呼ばれる山があるようで、ベイト・アル・ファキーフやジーザーンにも近いことから、この地を指している可能性はありそうだ。

*2:ファキール(貧者)はダルヴィーシュの中でも特に、托鉢などで生活する修行僧を指す。当初、ダルヴィーシュとファキールはほぼ同義語であったようだ。ただし後にスーフィズムが民衆に浸透すると、「ダルヴィーシュ」の語は、世俗の生活を過ごすスーフィーの中で階梯が高い人にも使われるようになった。