シャイフ・ウマルの伝説

ド・サッシーの脚注と、ラテン語版 Gihan numa に書かれた内容から読み取れる、シャイフ・ウマルの伝説は以下のような内容だ。


ヒジュラ暦656年(西暦1257/8年)、(アレクサンドリアの)シャイフ・アブル=ハサン・アッ=シャーズィリーが、スアキン経由でマッカ(メッカ)への巡礼に向かう途中、エメラルド山(Emeraudes / Zamred) とアジン山 (Adjin /Agin)から、それぞれ6日の距離があるアブラク山 (Ebrek / Abrak) に差し掛かったところで、弟子のシャイフ・ウマルにこう言った。「私はここで死ぬだろう。私が死んだら、ここにベールをかぶった人物が現れるので、彼の指示にすべて従うように」


まもなくアッ=シャーズィリーが死ぬと、遺言通りベールを被った人が現れた。彼が少し土を掘ると綺麗な水が湧き出した*1。ウマルは彼の指示に従い、その水で師の体を浄めて師の遺体を埋葬した。そのまま立ち去ろうとした彼をウマルは引き止め、「あなたが誰か教えてほしい」と願った。すると彼はベールを上げた。その顔は、アッ=シャーズィリーその人であった*2。彼は先ほどの水をボウルに汲んでウマルに渡し、「この水が動く方向に進むがよい。そして、この水が動きを止めたところで、大いなる運命がお前を待っている」と言って、忽然と姿を消した。


シャイフ・ウマルは旅を続けてスアキンに辿り着き、そこから船で紅海を渡ってマッカに行こうとした。そのとき彼は、ボウルの中の水が動くのを見た。そこで水の導きに従って、南へ向かう船に乗りこんだ。船がモカ港まで辿り着いたとき水の動きが止まったため、彼は船を降りて町外れに小屋を建てて暮らすことにした。彼がそこで井戸を掘ると、きれいで美味しい水が湧き出した。


ウマルが辿り着いたしばらく後、モカの町を疫病が襲った。ウマルは自宅の小屋を療養所として彼らの治療にあたり、多くの人々を救った。モカの族長には一人の美しい娘がいたが、彼女も病気に罹って療養所にやってきた。彼女の病状は重く、その治療には他の患者より数日長くかかったが、無事命を取り留めた。しかし彼女があまりに美しく、またウマルの名声も広まっていたため、町の人々はこの「二人の男女が同じ屋根の下で過ごした数日間」を勘ぐり、あらぬ噂を立てた。それが族長の耳にも届くと、その不名誉な噂に怒った族長は、ウマルとその弟子達をモカの町からウサブ山へと追放した。

ウサブ山は食べられるものがほとんどない荒野で、コーヒーノキが生えているだけだった。そこでウマルらはそれを食べるしかなかった。やがて彼らはその実をスープにして食べるようになった。


何年か経ったモカの町で、今度は疥癬(かいせん)が流行して人々が苦しんだ。このときモカで暮らしていたウマルの旧友の一人が、たまたまウサブ山のウマルの元を訪ねて、そこで彼らの飲んでいたコーヒーのスープを飲んだところ、その疥癬が治った。町に戻った彼は、疥癬の治った理由を人々に聞かれて「ウマルから貰った水を飲んだ」と答えた。これがモカの人々の間で噂になり、ウマルを追放した族長の耳にも届いた。族長はウマルに許しを乞い、彼をモカに呼び戻し、彼のための安息所*3を建てた。


やがて彼は族長の娘と結婚し、その後スアキンに移住してそこに新しく安息所を建てた。彼の子孫がウマル家の一族となった。


ド・サッシーの脚注でもラテン語版でも、「エメラルド山」「アブラク山」「アジン山」と言った地名には何の注釈もなく、具体的にどこを指すかはよく判らない。しかし現在のエジプト、スーダン南スーダンにそれぞれ同名の山があり、それぞれの位置関係*4と、マッカへ渡る予定であったスーダンの港、スアキンとの位置関係などと合わせても、多少のずれはあるものの、これらのアフリカ大陸側の山を指すものと考えてよさそうだ。

*1:砂漠地帯で生活する人々にとって、もっとも典型的な「奇跡」の実践の一つである。

*2:復活の奇跡を連想させるが、アッラーが彼の師の顔を借りて現れたのだと解釈されることが多い。

*3:修道僧が寝泊まりできる、小さな修道施設

*4:「アブラク」という地名はイラクの山中に、「アジン」という地名はアナトリアの山中にも見られる。しかし位置関係から考えるとこれらの可能性は低いと思われる。