薬・嗜好品・飲み物

11世紀初頭のイエメンで、イブン・スィーナーの言う薬用としてのコーヒー「ブンカム」が存在していた可能性については、前(2013-2-20)にも述べた。しかしこの古い時代の「薬としての」利用方法と、15世紀以降のアラビア半島での「嗜好品として」、そして「宗教的飲み物として」の利用方法*1には隔たりがあると思われる。


ザブハーニーが、わざわざ「アビシニア*2エチオピア)への旅行中に効き目を発見」したと書かれていることから、15世紀のイエメンでは、かつての「薬としての」利用方法もすでに廃れ、一般には広まっていなかったことが示唆される。少なくとも14世紀にイエメンを訪れたイブン・バットゥータの記録にも、人々がコーヒーを用いていたことを伺わせる記述はなく、少なくともラスール朝時代には市中で見られるものではなかった。

また15-16世紀のアラビア半島でコーヒーの嗜好品的な利用が紹介されると、間もなくイエメンからマッカ、マディーナ、カイロ、コンスタンティノープルへと、かなりの速度でイスラム世界に広がって行った。このときの伝播の速さから考えると、もしもっと早い時代からイエメンで嗜好品として使われていたならば、これら他の地域にももっと早い時期に伝わっていたはずであり、もっと多くの文献に名前が出てくる方が自然であろう。

イエメンで嗜好品として認知されるようになった後は、それなりの早さで普及したのだと想定すると、ワラシュマ家がゼイラからイエメンに渡った15世紀の初頭に、エチオピアからイエメンに「コーヒーを嗜好品とする知識」が伝来(または再来)し、15世紀半ばまでにイエメンの一般社会にまで普及したという推定は、そこそこ良い線を行ってるかもしれない。


ただし、この15世紀初頭からの嗜好品としてのコーヒー利用が、イスラム教徒らの宗教的な側面も持つ「飲み物としてのコーヒー(カフワ)」と同じものであったかどうかには注意が必要だ。16世紀後半のアブドゥル=カーディルの時代ですら、マッカ(メッカ)やマディーナ(メディナ)などを含んだアラビア半島で、キシル(殻)から作るカフワと、ブン(殻と豆)から作るカフワ以外にも、豆や実を食用とするなど、さまざまな形でのコーヒーの実や豆の利用方法があったことが『コーヒーの合法性の擁護』から読み取れる*3。実はそういった「飲み物ではない」の利用法が先に伝わり、その後で「飲み物としてのコーヒー」が広まっていったという記録が見られるのだ。

このことは、アラビア半島からオリエントにかけて広まっていた、いくつかの「コーヒー発見の伝説」の類型とも一致する。一般に普及している「山羊飼いカルディの伝説」や、13世紀頃の出来事だとされる「シャイフ・ウマル(=シェイク・オマール)のコーヒー発見伝説」などについては、辻静雄理研究所・山内秀文先生の「コーヒーマニアックス」(http://www.tsujicho.com/oishii/recipe/pain/cafemania/hakken02.html)を参照されたい。どちらも最初の発見は「実を食べた」というものである。


このことから、コーヒー利用が一般化しはじめた時代のイエメンにおいても同様に「飲み物としてのコーヒー」以前に、別の形での利用…キシルやブンの利用があったのではないかと考えられる。多分それは11世紀頃の「薬としてのブン/ブンクムの利用」とも異なる「嗜好品」としての利用であった。このタイプのコーヒーの利用は、当初エチオピア起源のザビードの奴隷たちなど、社会的な下流階層の中で広まったと考えられる。このときの利用法は「嗜好品」としての側面が強い多様なもので、その後のイスラム教徒らの間で広まった「宗教的飲み物としてのコーヒー」と直接結びつけるのが難しいものだった可能性も高い。

ただし嗜好品としての多様な利用法の中から、(後述するように)スーフィーたちの手によって、彼らの宗教儀式と結びついた「飲み物としてのコーヒー」、すなわち「カフワ」が生まれたと考えてよいだろう。16世紀のアブドゥル=カーディルは、これらの利用方法の中でイスラムの教えに合ったものとそうでないものを区別した上で、「合法」と見なせる「飲み物としてのコーヒー = カフワ」だけを擁護したのである。

*1:アラビア半島でのコーヒー利用は、スーフィーが修行時に眠気覚ましとして用いるという側面もあったが、この作用は「ブン」、すなわちコーヒー豆単独で得られることが既に初期から知られていたようだ。ただしイエメンだけでなくアラビア半島の他の地域でも、その普及初期には「殻(キシル/ギシル)」の利用と、豆と殻を同時に使う方法が広まっており、時と場合によって使い分けられていた。これについては後述。

*2:アビシニアはエチオピア高地の別名。ただし、実際に『コーヒーの合法性の擁護』に「アビシニアに行った」と書かれているのではなく、彼が行った土地は"ajjam"とされている。そこをアビシニアとするのはド・サッシーの解釈による。ajjamは、アラブ人を表す"djam"に否定の接頭語が付いたもので、「非アラブの(人、土地)」を意味し、字義通りに捉えるならば彼が行ったのは「アラビア半島(イエメンからマッカ、マディーナあたり)外の土地」である。この言葉はエジプトやペルシアなどを指す場合が多いが、ソマリア半島が「バール・アル・アジャム」と呼ばれていたようにアフリカ大陸側の土地もajjamと呼ばれていた。ajjamは時としてイラン人/ペルシア人を指す言葉としても用いられ、アントワーヌ・ガランはこれをペルシアと訳したが、ド・サッシーはそれに異議を唱えてアビシニア説を採用し、後世の文献もエチオピア南西部がコーヒーノキの起源地であることから否定する材料がないとして、ほとんどがド・サッシーの説を採用している。これに関しては後日詳述する。

*3:『コーヒーの合法性の擁護』の解説を見ると、アブドゥル=カーディルは全7冊のうちの第5書を「コーヒーの悪い利用法」に関する指摘に費やしている。ただしド・サッシーによる仏訳は第1,2,7書のみであり、アラビア語以外の翻訳版はないようだ。