はじまりの物語 (10)

#少し回り道して、「シェーク・オマール」ことシャイフ・ウマルのコーヒー発見伝説について検証。


「コーヒーの起源」は、はっきりした証拠が残っておらず、いくつもの仮説が存在している。中にはかなり怪しげな、古代ギリシャや聖書に起源を求めるようなものから、いかにもそうした可能性がありそうなものまで、さまざまだ。

これらの仮説については、山内秀文「辻調おいしいネット / カフェ・マニアックス」にわかりやすく分類されてまとまっているので、参照されたい。


ここで「三大伝説」として紹介されている三つの説、すなわち (III-a)山羊飼いカルディの伝説、(III-b)シェーク・オマールの伝説、(III-c)ゲマルディン(ザブハーニー)の伝説、は、いずれも多くの文献などで引用され、一般向けにもしばしば紹介されている有名な伝説である。

この三大伝説のうち、(III-a)山羊飼いカルディの伝説は、ファウスト・ナイロニの『コーヒー論:その特質と効用』(1671)に書かれた、オリエント地方の説話をベースに脚色されたものと考えられている。

一方、残る二つについて、ユーカースは『オール・アバウト・コーヒー』で、いずれもアブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』を出典として紹介している。しかし実際にド・サッシー『アラブ文選』を見る限り、(III-b)のシェーク・オマールの伝説は、その訳文中には出てこない*1

では、そのシェーク・オマールの最初の出典はどこなのか?


実は、ド・サッシー『アラブ文選』の脚注にその答えがある。脚注96において、他の文献からの非常に長い引用があるのだが、その中に確かに「シャイフ・ウマル(シェーク・オマール)」のエピソードが書かれている。この脚注の冒頭には、それが『トルコの地理』という文献中のアラビア半島の記録からの引用であると記されている。すなわちシャイフ・ウマルの伝説はアブドゥル=カーディルの文献に記載があるのではなく、ド・サッシーが別の文献から引用したものだ。ド・サッシーより前にアブドゥル=カーディルの文献を抄訳したアントワーヌ・ガランが、この伝説に言及していないのもこのためだろう。


ド・サッシーによれば、元になった文献はコンスタンティノープルで出版されたもので、Armainがフランス語訳したものがパリ王立図書館にあり、それを一部意訳したものを脚注に引用したそうだ。彼が参照した部分のArmainの文書は現存しないようだが、その原著は特定できる。

それは、17世紀のトルコの地理学者でありオスマン帝国で最大の博学者の一人として名高い、キャーティプ・チェレビー(またの名をハッジ・ハリーファ)が著した『世界の鏡』(Cihannüma / Gihan numa / jihan numa) だ。


この『世界の鏡』(もしくは『世界記述の書』とも呼ばれる)は、1648年に執筆開始された。一旦中断した後、1654年に再び執筆が再開され、1657年にチェレビーが死んだため未完に終わったものの、オスマン帝国最大の地理書と評される大書である。18世紀に入って、コンスタンティノープルで最初の活版印刷所がイブラヒム・ミュテフェッリカとサイード・エフェンディによって作られた際、1732年にトルコ語の小冊子として出版された。なお、この書には40もの図版が含まれており、その24番目の図版は日本の地図である。これがイスラーム世界で出版された書物の中で初めて書かれた日本図である。


この『世界の鏡』には、ド・サッシーが参照したArmainによるフランス語訳以外に、1812年にJoseph von Hammerが訳したドイツ語版と、1818年にMatthias Norbergが訳したラテン語版が存在する。ただしいずれも『世界の鏡』の一部分を訳したもので、ドイツ語版がルメリアとボスナ、ラテン語版がオリエントの地理の訳になっている。フランス語版も、現存するのはArmain訳の小アジアアナトリア)の部分を抜粋したものだけのようだ。そして、これらすべてが現在、オンライン上で読める(本当にいい時代だ)


ド・サッシーの脚注の最後にも、ラテン語版が1818年に"Gihan Numa, geographiia orientalis"という名前で出版されていることが書かれている。多少の相違はあるようだが、実際、ラテン語版"Gihan numa"にはド・サッシーがフランス語訳したものとほぼ同様の内容が記載されており*2、第二巻のp.217以降にみられる。現存する他の二つ、フランス語版抜粋とドイツ語版は、この部分をカバーしてはいないようだ。

*1:ド・サッシーの訳文中で"Omar"が出て来る箇所は二箇所ある。一つは"scheïkh Shéref-eddin Omar, fils de Faredh"(シャイフ・シェレフッディーン・ウマル・イブン・ファレズ)という、コーヒーとワインに関する詩をよんだ人物に関する部分(p.414)で、もう一つは"Ali Schadhéli, fils d'Omar"(アリー・シャーズィリー・イブン・オマル, p.419)である。後者は「オマルの息子、アリー」であってオマルではないことに注意。例えば臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』でも「アリー・イブン・オマル」と「オマル」の混同が見られる。

*2:ド・サッシーの脚注96の引用冒頭は、"Hezarfen Hosain Effendi"で始まっているが、この人名は他の版には見られない。ただし、ラテン語版の前書きに「イブラヒム・エフェンディ」の名前が見られる。これはコンスタンティノープルで出版したイブラヒム・ミュテフェッリカと、サイード・エフェンディのことを意味する。白岩によれば、スウェーデン人カールステンの記録に「イブラヒム・エフェンディ」名での記載が見られ、欧州では当初二人が混同されて、この名が用いられていたことがわかる。ド・サッシーが引用する際、さらにこれを17世紀末の別の"Effendi"と混同した可能性がある。