民衆へのスーフィズムの普及

ひとまず神秘的な部分の話は置いておくとして、シャイフ・ウマルの伝説から確実に読み取れることがある。それは13世紀以降のエジプトで信奉者を増やしたシャーズィリーヤ教団が、イエメン沿岸部(ティハーマ地方)にも進出していたということだ。


この当時のイエメンが、ラスール朝のもとで繁栄の時代を迎えていたことは、以前にも述べた(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130220#1361367628)。特にティハーマ地方では、ザビードに多くの学者(ウラマー)が迎え入れられ、学術と宗教の都市として発展した時代である。もちろんザビードでは、ウラマーによる「正統」なスンナ派が最もその権威を増しただろうが、ガザーリー以降、正統派からも許容されていったスーフィズムもまたザビードで広まり、ウラマーの一部が研究していただろうことは想像に難くない。

この時代の他地域のスーフィーと同様、ザビードスーフィーの多くも、普段は商人や職人として普通の暮らしを送っている「一般庶民」であったとされる。彼らは昼間は普通の生活を送り、夜になるとズィクルなどの宗教的な修行活動に勤しむ「修行者」であった。1330年頃にこの地を訪れた、イブン・バットゥータが出会ったのも、そうしたスーフィーたち -- スーフィズムを研究するウラマーや、それを実践する一般庶民 -- であったのだろう。


だがスーフィーたちの中には、別の生き方を送る者たちがいる。元々の語源である「スーフ(毛布)を纏う者」の名の通り、粗末な身なりで荒野での禁欲的な修行生活を送り、しばしば放浪生活を送るスーフィーたちである。彼らは、ダルヴィーシュやファキール(貧者)と呼ばれた。元々スーフィーたちの多くは、このような「ダルヴィーシュ/ファキール」であったが、12-13世紀にスーフィーの教団化が進んだことで別のタイプの人々が現れた。


教団を率いる「聖者」らは、厳しい修行の末に自分の内面で神に触れた、「神の親しい友人」であると位置づけられた*1。彼らはまた、しばしば「奇跡を顕現」させた。厳密にはそれは彼ら自身が起こすのではなく、偉大なる神が「友人である聖者のために」起こすものと解釈されるのだが、現世での御利益を求める民衆にとっては、そういうところは問題ではなく「奇跡のおこぼれに与れる」ことこそが重要である。

そのため民衆の中から聖者崇拝の動きが生まれ、また同時に自らが一歩でも聖者に近い位置に立つため、何とかしてスーフィズムの一端に触れようとしたのである。


上述したフマイザラのアッ=シャーズィリーの墓所のように、教団の「聖者」を祀る廟が各地の荒野などに作られると、そこが荒野で修行するスーフィーたちの拠り所、宿泊所となり、やがて教団の活動拠点としての役割を果たすようになっていった。そこに都市で生活する民衆が現世利益を求めて参拝に訪れるようになり、やがて彼らに混じって修行を行うようになる。そうした民衆は、従来のスーフィーたちのような「世捨て人」ではなく、普段は普通の生活を送る「俗世に生きる人々」である。やがてそうした民衆の数が都市部で増えると、町の中でも夜間に集まって修行を行うようになる。こうして民衆の間にスーフィズムが浸透していった。

*1:ムハンマドのような救世主や預言者ではなく、一歩引いた関係という点が、彼らが異端視されないために重要である。