イエメン人は豆を煮た?

イエメンでは、このモカコーヒーが生み出す利益を独占するために、コーヒーノキの苗木や種子の持ち出しを禁止した、とされる。一説には、出荷するコーヒー豆まですべて熱湯で処理して芽が出ないようにしていた、とまことしやかにささやかれている。が、この説は今日では、まぁ単なる噂にすぎないものだろう、と考えられている。


現在も、ネット上では「焙煎用に売られてる生のコーヒー豆を植えるとコーヒーノキが育つのか?」という質問を時折見かける…「シンプルな答え」としては「ノー」なのだが、細かく突き詰めると実は「100%ありえない」とは言いがたい……しばしば「精製してパーチメント(殻、種皮)を除いたものは発芽しない」と回答してる人もいるが、それも厳密には誤りだ。「可能性は非常に低いが、ゼロではない」というのが正しい答えだ。

発芽そのものにはパーチメントは必須ではないし、それどころか播くときには、パーチメントを取り除いたものの方が発芽しやすいという話もある*1。しかし、一度パーチメントを除いてしまうと、生豆に鎮座している小さな「胚芽(胚)」がそう長くはもたない。
ロブスタなどと比べれば、アラビカの種子はコーヒーノキの中ではかなり長持ちする方で、パーチメント付きの状態なら、2年くらい経った種子でも発芽率は結構高い方だ。しかし、パーチメントを除いたまま放っておくと、胚芽の生存率(≒発芽率)は数日〜数週間単位で、あっというまに低下してしまう。このときの主な死因は、胚芽が乾燥してしまうためだと言われている。さらに精製過程で熱風乾燥をかけてたりすると、まぁまず胚芽が生き残ってるものはないだろう。

なので、通常焙煎用として売られている生豆だと、ほとんどの場合とっくに胚芽が死んでいて、発芽することはない。ただし、それでもごくまれに胚芽が生きている豆が残ってる場合がないとは言えないし、収穫されてからあまり時間の経ってないものほどその率は上がる…と言っても結局、可能性はごく僅かで、山ほどの生豆を播いて芽がでるものがあるかどうか、といったところだろうが。


当時のイエメンのコーヒーは、今日でいうところの乾式と同じように、乾燥させたコーヒーの実とパーチメントを一緒に砕いて、種子の中にある「胚乳(さらにその中に胚芽がある)」=「生豆」を取り出したものだったと考えていいだろう。果実とパーチメントは専ら現地で「ギシル」として利用され、生豆は現地消費と輸出の両方に回された。モカ全盛期、イエメンでは苗木と種子の持ち出しは原則として禁止だったろうし、現在よりもはるかに輸送に時間がかかった当時ではなおさら、旅の途中で胚芽が死んでしまって、届いた「生豆」をいくら播いたところで、ほとんど発芽することはなかったろう。

さらに種子の持ち出しが禁止されていたため、イエメン以外では「本物のコーヒーの種子=パーチメントコーヒー」を見る機会もなく、実際に輸入されてきた「生豆」を「コーヒーの種子」の本来の姿だと思った者も当時のヨーロッパには多かったのではないだろうか…「(実は生豆なので当然だが)このコーヒーの種子はいくら播いても芽が出ない → きっとイエメン人は種子に何か細工してるのだ」と。さらに妄想をたくましくするなら、ひょっとしたらイエメンを訪れた当時の人は、ギシルを作る様子を目撃して「生のコーヒーを煮てる」と勘違いした者もいたかもしれない。


ともあれ、「発芽しないように熱湯で処理してる」という風説は、このような誤解から生じたのではないかと考察する。イエメンからみると、根も葉もない噂であっても、それで「生豆を播いて試してみる人」が減るのなら好都合だったわけで、わざわざその誤解を解いてやるべき理由もなかったろう。

*1:一つには、パーチメントが物理的な「障壁」として豆への吸水や芽の生長を妨げるから、と言われている。また、化学的にも、クロロゲン酸類やカフェインなどがパーチメントに高濃度で残存することで、発芽が抑制されるという説もある。